2006年8月20日 (日)

李登輝氏の「武士道」解題を読む

  李登輝氏の「武士道」解題を読む
  --ノーブレス・オブリージュとは--

 前回に続いて台湾に関連した話しになるが今回は台湾の前総統である李登輝氏が自分の半生と武士道について書いた「武士道」解題という本の紹介である。
 この本は大きく分けると2部からなっている。前半は李登輝氏が青年時代に読んだ本や考えたことなど、後半はタイトルの通り新渡戸稲造の「武士道」についての解説である。

(李登輝氏のこと)
 まずなぜ台湾の総統であった李登輝氏が日本の教育や文化について書いているのかという素朴な疑問である。これは李登輝氏の経歴から知る必要がある。李登輝氏は1923年(大正12年)に台北市の近郊の村で生まれ、台北高等学校から京都帝国大学農学部に進んでいる。終戦とともに中退して台湾に帰り台湾大学を卒業、台湾の農林省に入省している。
 現代の感覚では将来政治家や官僚を目指すならば法学か何かになるのだろうが、当時の青年たちはみな「人生いかに生きるべきか」ということを真剣に考えていたのである。その中でイギリスの評論家、歴史家であるカーライルの著作に出会い心酔する。またかつて台湾で農業指導を行っていた新渡戸稲造のカーライルについて書いた本に出会い、新渡戸と同じ農学に進むことを決意する。
 長くなったがつまり李登輝氏は最初から政治家を目指していたわけではなく、時代の要請で台湾市長から総統までなったものの、この本を読めば分かるが李登輝氏は政治家というより学者肌の人である。

李登輝氏は言う。
「私自身が日本の教育の中で豊富な知育と徳育を授けられ、それを通して知識や知恵に目覚め、『人間いかに生きくべきか』という根本的な哲学や理念を身に付けたからこそ、なおのこと、この人類史的危局の中において必要とされる『日本の心』の大切さを思い起こさずにはいられないのです。」

 氏は青春時代にもっとも影響を受けた本としてゲーテの「ファウスト」、倉田百三の「出家とその弟子」、カーライルの「衣装哲学」をあげ、それらの先に新渡戸稲造の「武士道」があるという。

 私自身の経験など李登輝氏と比較にならないが若いころ「人生いかに生くべきか」少しは考えてきた。そして古今の哲学書、文学書などを読みあさった時代がある。後年わたしはこう結論づけた。哲学的なことを考えることはある程度、意味があるかもしれないが、必要以上に考えることは無意味ではないかと。厳密に言えば、他にやるべきことがたくさんあるのではないかと。

 この本だけではないが李登輝氏の本を読んで若いころ読んだり、考えてきたことはけしてムダではなかったのではないかと思うようになった。いやそれどころかまだまだ足りないところがあったのではないかと、そのように考え直した。そして今さらながらの感はあるものの、まだ読んでいない古典を読んだり、かつて読んだが何のことかさっぱり分からなかった本を読み返しているところである。

 政治家としての李登輝氏の思想、信条的に私は必ずしも全面的に賛同するわけではないがひとりの人間として氏を見たときやはり尊敬できる人間のひとりだと思う。また、氏の影響力の強さを考えれば、台湾の人たちを理解するときの参考になるのではないだろうか。

 私のこの案内の中に武士道の部分は紙面の関係で省略されてしまったが読んでいただければ分かる部分である。それより感銘を受けた前半部分に焦点を当てた。

書 名:「武士道」解題 
    ノーブレス・オブリージュとは
著 者:李登輝
出版社:小学館、小学館文庫

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2006年7月22日 (土)

「議論のレッスン」という本

(自分の言っていることさえ分からない)

 世の中分からないことが多いもので、私が長年疑問に思っていたことが人間同士のコミュニケーションがなぜうまくいかないかということだった。もっとせまくいえば会社やグループ内での会議でさえ相手のいっていることがよく分からない。いや相手だけでなく自分の言っていることさえ発言している最中に「なんか違うなあ」と心の中で思うことがよくある。

 例によって行きつけの書店でディベートの本を見つけた。ディベートに興味があったわけではない。ディベートの技術を身に付けて会議の場で相手を言い負かせてやろうなんてそういう趣味はさらさらない。ただ、相手の言っていることをしっかり理解し、自分の言いたいことを明確に言いたいという、ただそれだけである。

(第一の発見:議論は真理を追究するものではない)
 ディベートは一種のゲームである。またそれは真理を追究するというものでもない。あるテーマにおいて相反する主張のどちらがより説得力を持つかを争うゲームである。そもそも議論そのものが真理を追究するものではない、ということに気づいたのが第一の発見だった。わたしは(そしてほとんどの人が)議論は真理を追究すると暗黙のうちに思っているから相手を理解することが難しくなるのだろう。

(第二の発見:議論には構造が必要だ)
 ディベートの本から学んだことは意見というものはなにがしかの構造をもっていなければならない、というものだ。これが第二の発見である。それには主張があり、根拠なりデータがなくてはならない。そしてその根拠から主張が導き出されるという論証が必要だ。まともな意見にはこれらが必要なのだ。私が遭遇した議論の多くが構造上欠陥があったのだ。だから「おかしい」とか「意味不明」とかいう感じが漂っていたのである。つまり会議での発言にそもそも主張がなかったり、その根拠がなかったりその論証があまりにお粗末だったりしたのだ。いや人のことばかり言えない。私自身の発言も議論の構造など考えていないから意味不明なことが多かったのだ。

 そういうことを発見したもので関連する本を数冊読んでみた。もうディベートどころではない。そもそも人間が物事を判断し理解するメカニズムを知りたくなった。何冊か読んだ中で早稲田大学教授の福澤一吉氏の「議論のレッスン」という本から大きな感銘を受けた。ここではじめて「議論の構造」という言葉が出てくる。氏は「私たちには議論のスキルが欠けている」と指摘している。実は第一の発見、第二の発見を再認識したのはこの本を読んだときである。

 日常会話や公式の会議が分かりにくい原因はかくされた根拠、暗黙の共通認識、了解事項あるいは論理の飛躍があるからである。

(第三の発見:議論はそもそも難しい)
 日本人の多くが多用する「やはり」ということばについて政治学者の丸山真男氏と哲学者の鶴見俊輔氏との対談を例に挙げて分析している部分はおもしろい。議論を延々とやってきて「やはり」という言葉が出ると水戸黄門の印籠と同じで(このたとえは私の表現です)ここで議論が停止してしまう。そういう意味で「やはり」は危険な言葉であるから注意して使うべきだ、といっている。

 さて、議論はそれほど難しいものだろうか、ということになるが福澤氏ははっきりと「物事を主張するというのは難しい」といっている。アメリカではこの議論のスキルについて大学だけでなく大学院の博士課程でも延々とやるそうである。

興味のある方はどうぞ。

  書籍名:初めてのディベート 
  著 者:西部直樹
  出版社:あさ出版

  書籍名:議論のレッスン 
  著 者:福澤一吉
  出版社:日本放送出版協会(NHK出版)
          生活人新書

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2005年9月16日 (金)

情報発信型の人間

toudai 最近、いろいろな人に会って感じることは、それぞれの分野で活躍している人の多くは、情報発信型の人間だということだ。私も含め、凡人はこう思う。「何の利益にもならないことに、なぜ手間ひまかけてメールを出したり、ホームページに運営したりしているのだろう?」と。

 たしかに、その場面だけでは利益になっていなくても情報発信型の人間には、まわりから情報や人が集まってくるものだ。こうして情報人脈が形成されると、そこから必ずしも、経済的な利益だけではないにしろ、思わぬ利益が得られるのだ。彼らはこのことを経験上、よく知っているのだろう。

 よく人間関係はギブ、アンド、テイクと言われるが、私が観察している限り、ある分野で活躍している人たちはギブ、アンド、ギブである。与えることを喜びとしているようにさえ見える。

 情報を発信するためには、感性と情報とエネルギーが必要である。情報発信型の人間は日常的に感性を磨き、情報を取り入れ、そしてエネルギーを蓄積しているのである。そう考えると「各分野で活躍している人」=「情報発信型の人間」という構図は、何となく理解できる。

 わたしも細々とではあるがこうしてブログを運営しているが、これが表現力をつける訓練になっており、自己修養になっているから損にはなっていないと思うのである。

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2005年9月15日 (木)

ランチェスター戦略(3)-効率-

 わたしが竹田陽一氏を高く評価する大きな理由は言っていることが現実的であり具体的であることだ。少なくともわたし自身にとってはそのように思える。

 たとえば仕事の進め方について市販の本にはほとんどこう書かれてある。「仕事は優先順位の高い順番にやるようにすれば効率が上がる。80-20の法則に従って重要な20%を優先させれば効率よく仕事ができて余裕も生まれるというものだ」

 それに対して竹田氏は優先順位が高いかどうかこれが分かる人は戦略実力の高い人であって多くの人はそうではないという。80-20の法則にしても何回も繰り返される仕事なら妥当するかもしれないが、零細企業や個人が一生の内、1回か2回しか行なわないことに80-20の法則は適用できないという。

 わたしは全くその通りだと思う。一般に言われていることが間違っているのではなく自分に適用できるかどうか冷静に考えないと思わぬ落とし穴にはまってしまう。世の中には頭のいい人、能力のある人がいるかもしれないが、ほとんどの人はそうではないはずだ。だから仕事は最初から効率を求めるのではなく、ある程度、量をこなすことが大事である。(実はその道のプロといわれている人は成功したあとでも相当の量をこなしている。ただ表面に出ない、出さないだけである)それからあと徐々に効率を上げる、というのがわたしの経験からも正しい手順というものだろう。

 これは仕事だけでなく勉強でも趣味の世界でもいえることだ。書店に並べられている本のタイトル「効率よく~する」は読んでも良いが初心者がやる方法ではない。

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2005年9月13日 (火)

ランチェスター戦略(2)

 竹田陽一氏の「ランチェスター弱者必勝の戦略」の続きであるが

 結論から言うと次のように行動しろといっている。本書ではそれぞれの根拠と実例を挙げて説明してある。わたしはもっとも重要だと思ったことを数項目上げようかと思ったが全部重要だったのですべて上げることにした。

第1条 弱者は自分の仕事に情熱を持ち熱意に満ちて行動すべし
第2条 弱者は強い会社との競合を避け勝ちやすき場面を選ぶべし
第3条  弱者は全体発想を避けて要点を細分化し攻撃目標を明確にすべし
第4条 弱者は力の分散を避け、重点主義に徹すべし
第5条 弱者はひとりでも多くのお客を作るために総力の7割を投入すべし
第6条 弱者は長時間労働に徹し必勝の12時間、圧勝の14時間を投入すべし
第7条 弱者は管理と計画のため投入時間の3割を配分すべし
第9条 弱者は休日の3割を戦略計画と社員研修に投入すべし
第10条 弱者は”やる前評論”を避け現場主義と体験学習を重視すべし
第11条 弱者は重装備発想を避け軽装備と自由度の高さで勝負すべし
第12条 弱者は安易に人の力に頼らず独自路線を開発すべし
第14条 弱者は間接戦を避けてお客を特定化し最終利用者に接近すべし
第15条 弱者は1日30分のお客様時間を作り得意先の発展と利用者の幸せを祈り感謝を態度で示すべし

この本にはないがその後、別のところでは最後にもう1条あった。それは

「弱者は小さな成功で調子に乗るな」

ということである。

 人間には長年の経験や環境から強い思いこみがあって人によってはなかなか他人の意見を受け入れない傾向の人もいる。逆に言えば成功の基本的な心構えは「すなおな心」というか「他人の意見を受け入れる柔軟な思考」ではないかと思う。

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2005年9月12日 (月)

ランチェスター戦略(1)

4763182544  わたしは36歳の時それまで勤めていた会社をやめて独立しました。資産もない、人脈もない、何もない。あるものといえば電気の資格と10年間の勤務で身につけた技術だけでした。悶々として一晩中考えて出した結論は「一度しかない人生をこのままで終わっていいのか。良くも悪くも自分の人生だ、自分の責任で生きていこう」というものでした。

 そういう状態でしたので何もかもが手探り状態でした。そんな中、書店で「ランチェスター弱者必勝の戦略」という一冊の本に出会ったのです。著者は福岡の竹田陽一という経営コンサルタントでした。内容はそんなに高尚なことではなく、戦略には強者の戦略と弱者の戦略がある。零細企業の業績は社長の戦略実力で決まる。年間に何時間働くべきか、そしてどの分野にいくらの時間を当てるべきかということが書かれていました。私が技術者であったこともあり、具体的に数字で示したあったので非常に分かりやすいものでした。わたしはできることからすぐ実行しました。まず顧客や知り合いの人間にはがきを出すことにしました。毎月、顧客向けにレポートを作成、郵送しました。とにかく接近戦を実行したのです。

 戦略の勉強を本格的にやったかどうかといわれればほめられるほどではありません。ただ実行できるところはすぐ実行してゆきました。競争相手らしい競争相手がいなかったということもあり、3年くらいで自分の仕事は一応の軌道に乗ることができました。

 企業の販売戦略とは違いますがこの竹田陽一氏のランチェスター弱者の戦略は個人としての生き方でも大いに有効であるということを身を持って体験したのでした。考えてみれば中小、零細企業の経営者、あるいは個人事業主にとって企業経営とは個人生活と表裏一体のものですから当たり前といえば当たり前なのかもしれません。

 わたしが読んだころはビジネス社から出版されていましたが現在ではサンマーク出版から文庫本として出版されています。下記は同書のアマゾンでのURLです。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4763182544/qid=1126527271/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-0934170-1227469

ランチェスター戦略というか竹田氏のランチェスター戦略とわたしの生き方についてはこれから時々触れていきたいと考えています。

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2005年9月 1日 (木)

書籍紹介「ファラデーが生きたイギリス」

  イギリス訪問前この国についての本を読みあさった。イギリスは伝統のある国とはいいながら具体的なイメージがわかない。いろいろな角度から光を当ててみた一つがある人物を通してその国と時代を見てみるということである。

 書店で自然科学関係のコーナーをのぞいていたところおもしろそうな本に出会った。
  書名:「ファラデーが生きたイギリス」 
  著者:小山慶太 
  出版社:(株)日本評論社 

  マイケル・ファラデーという人物について著者の小山氏は書いている。

 一般に歴史上の天才たちは皆、輝かしい業績に包まれ、それぞれ魅力的である。しかしそれだけにあくが強く人間としての評価は毀誉褒貶あい半ばする例が少なくない..
 そうした中、本書の主人公ファラデーは高潔な人柄で知られ世俗の栄誉に淡々とした生き方を貫いた希有な存在であった。清貧に甘んじ科学の研究と啓蒙にひたむきな姿はある種のさわやかさを感じるほどである。

 この本は7章からなっている。1、2章で時代背景と生い立ち、3、4、5章でその仕事ぶり、6章では「清廉高潔の人」として個人的な生活ぶり、最終章では現代物理学とのかかわり、という構成である。わたしは6章から読み進んでいった。

 ティンダルという人が書いた伝記の一節に
 鍛冶屋の息子で製本屋の小僧であった彼が、生涯かけて15万ポンドの財産か一文にもならない科学か、どちらを採ろうかと考えたのはもっともですが、彼は後者を選びました。そうして貧しく死んでゆきました。しかしながら、彼は四十年わたってイギリスの科学の名を諸国民の間に高くしました。

 仕事内容については理系、技術系以外の方々には取っつきにくいかもしれないが、わたしにとってはその仕事ぶり、そしてその生き方に感動したのである。

 実際、イギリスのロンドンを訪問したときファラデー博物館を訪問し、大いに感動して帰ってきた。このときの様子はわたしの別のブログで公開している。

http://nasan.cocolog-nifty.com/henachoko/2005/08/post_4a7b.html  ファラデー記念館

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2005年8月29日 (月)

壮大な徒労

  それから矢部氏はイギリスの哲学者ラッセルの話しを引用している。
A、Bという2台のソーセージを作る機械があった。A機械はソーセージ作りに情熱を注いでいた。B機械はソーセージを作ることに意味があるのか自分に問い始めた。その結果答えは否定的だった。やがて自分の心の探究を始めた。その結果、何もかもが無意味であるという結論に達してソーセージ作りも全て止めて途方に暮れてしまった。

 矢部氏はいう
 自己探求をしたり懊悩することは知的作業としては意味があっても現実の生き方としては壮大な徒労である。知的探求は学者に任せていおけばよいのであり、われわれはもっと心を外に向けて人生に興じなければならない。

 わたしは矢部氏がどういう人物であるかよく分からない。この本以外に読んでいないのであるから何とも判定のしようがないのであるが、この本に書いてある限り大いに共感を持つのである。

 私は今でも若い人たちにこのたとえの話しをする。若いころは自己探求に何か大きな意味があるものという幻想を覚えるものである。やはり私は矢部氏が言うように「自己探求をしたり懊悩することは知的作業としては意味があっても現実の生き方としては壮大な徒労である。」と話すようにしている。

 もちろんそれでも探求を続けるならばそれも一つの人生であろう。ただ幻想であることに気づいて意味のある別の目的に情熱をそそぐ契機になればそれはそれで前途ある若者に親切を施したことになると思うのである。

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軽やかなニヒリズム

  ここに一冊の愛読書がある。いつも座右において読んでいるわけではないが、なぜか精神的な疲れを感じたときに開く本である。矢部正秋 著「よい人生を生きる智慧」  産業能率大学出版部 発行

 矢部氏は若いころ東西の古典を読みあさった。東洋のそれはあまりに情緒的であり人生に立ち向かう糧にはなり得ない。その点、西洋の人生論は一種の技術志向であり日常の生活体験を集積し、分析し、抽象化するのに優れていると思った。西欧の古典を読んでいる内に一つの確信に達した。それは「軽やかなニヒリズム」という生き方である。

 そういえば漱石は草枕の冒頭で「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい」と書いているが似たようなことを思ったのだろう。

 ニヒリズムは虚無主義であるから意味がないのではなく、考えて考えて、考え抜いた末に一つの結論に至る。要するに絶対的な真理はないのではないか、そうであるならその真理を自分の意志で作り上げてゆこうと考え始める。これは別に私の発明でもなんでもない。ニーチェをはじめ多くの哲学者、文学者が言っていることだ。残念ながらわたしはそこまで究極的な結論を出すほどの力も勇気もない。ただ何となく理解できる。そういう心情が私なりに解釈する「軽やかなニヒリズム」である。

 そして矢部氏はいう
 どんなに苦しくても人間の苦しみは人間の知恵で解決する以外に方法はない。・・ネガティブな人生観は人を救うことができない。かといって単なる楽天的人生観も過酷な人生の実相に太刀打ちできない。だから、われわれは人生を光と影の両面を見すえたうえで、肯定的な人生観を求めなければならない。

 なお上記の本「よい人生を生きる智慧」をアマゾンで検索したが注文不可(絶版か)になっていた。

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書籍紹介「失敗学のすすめ」

sippaigaku きわめて有益な本です。一読をお勧めします。

書籍紹介「失敗学のすすめ」
発行元:講談社 
著者:畑村洋太郎 
定価:1600円

 著者の畑村洋太郎氏は東京大学、機械工学の教授ですが(同書の著者略歴による)研究者に似合わず現場の状況、最前線の技術者の心理にも理解が深いようです。この本は多くの事故、失敗を例にそれから教訓を学ぶにはどうするかを教えています。技術系の問題ばかりでなく、経営、組織運営、営業、サービスなどどこでも問題になる事故などを扱っています。

 私は年間百数十冊の本を読んでいますが、この本は昨年もっとも感銘を受けた本の一冊です。下手な書評より下記に原文をいくつかのせましたので参考にして下さい。

 JCOの臨海事故などに対して「日本の技術基盤が崩れかかっている」という論調かあるがこれは一方的な見方である。・・・いずれのケースも日常的な失敗とのつきあい方そのもの問題があり、いわば失敗とうまくつきあうことができなかったことが原因の事故だと、私は考えています。

 人は「聞きたくないもの」は「聞こえにくい」し、「見たくないもの」は「見えなくなる」ものです。しかし失敗を隠すことで起きるのは次の失敗さらに大きな失敗より大きなマイナスでしかありません。大切なのは失敗の法則性を理解し失敗の原因を知り失敗が本当に致命的なものになる前に未然に防ぐ術を覚えることです。これをマスターすることが小さな失敗経験を新たな成長へ導く力にすることになります。

 失敗情報は伝わりにくく、時間がたつと減衰する。失敗情報は隠れたがる、単純化したがる、変わりたがる、神話化しやすい、ローカル化しやすい。

 私自身の体験からもなるほどと思うことがたくさんあります。

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