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2005年8月29日 (月)

壮大な徒労

  それから矢部氏はイギリスの哲学者ラッセルの話しを引用している。
A、Bという2台のソーセージを作る機械があった。A機械はソーセージ作りに情熱を注いでいた。B機械はソーセージを作ることに意味があるのか自分に問い始めた。その結果答えは否定的だった。やがて自分の心の探究を始めた。その結果、何もかもが無意味であるという結論に達してソーセージ作りも全て止めて途方に暮れてしまった。

 矢部氏はいう
 自己探求をしたり懊悩することは知的作業としては意味があっても現実の生き方としては壮大な徒労である。知的探求は学者に任せていおけばよいのであり、われわれはもっと心を外に向けて人生に興じなければならない。

 わたしは矢部氏がどういう人物であるかよく分からない。この本以外に読んでいないのであるから何とも判定のしようがないのであるが、この本に書いてある限り大いに共感を持つのである。

 私は今でも若い人たちにこのたとえの話しをする。若いころは自己探求に何か大きな意味があるものという幻想を覚えるものである。やはり私は矢部氏が言うように「自己探求をしたり懊悩することは知的作業としては意味があっても現実の生き方としては壮大な徒労である。」と話すようにしている。

 もちろんそれでも探求を続けるならばそれも一つの人生であろう。ただ幻想であることに気づいて意味のある別の目的に情熱をそそぐ契機になればそれはそれで前途ある若者に親切を施したことになると思うのである。

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軽やかなニヒリズム

  ここに一冊の愛読書がある。いつも座右において読んでいるわけではないが、なぜか精神的な疲れを感じたときに開く本である。矢部正秋 著「よい人生を生きる智慧」  産業能率大学出版部 発行

 矢部氏は若いころ東西の古典を読みあさった。東洋のそれはあまりに情緒的であり人生に立ち向かう糧にはなり得ない。その点、西洋の人生論は一種の技術志向であり日常の生活体験を集積し、分析し、抽象化するのに優れていると思った。西欧の古典を読んでいる内に一つの確信に達した。それは「軽やかなニヒリズム」という生き方である。

 そういえば漱石は草枕の冒頭で「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい」と書いているが似たようなことを思ったのだろう。

 ニヒリズムは虚無主義であるから意味がないのではなく、考えて考えて、考え抜いた末に一つの結論に至る。要するに絶対的な真理はないのではないか、そうであるならその真理を自分の意志で作り上げてゆこうと考え始める。これは別に私の発明でもなんでもない。ニーチェをはじめ多くの哲学者、文学者が言っていることだ。残念ながらわたしはそこまで究極的な結論を出すほどの力も勇気もない。ただ何となく理解できる。そういう心情が私なりに解釈する「軽やかなニヒリズム」である。

 そして矢部氏はいう
 どんなに苦しくても人間の苦しみは人間の知恵で解決する以外に方法はない。・・ネガティブな人生観は人を救うことができない。かといって単なる楽天的人生観も過酷な人生の実相に太刀打ちできない。だから、われわれは人生を光と影の両面を見すえたうえで、肯定的な人生観を求めなければならない。

 なお上記の本「よい人生を生きる智慧」をアマゾンで検索したが注文不可(絶版か)になっていた。

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書籍紹介「失敗学のすすめ」

sippaigaku きわめて有益な本です。一読をお勧めします。

書籍紹介「失敗学のすすめ」
発行元:講談社 
著者:畑村洋太郎 
定価:1600円

 著者の畑村洋太郎氏は東京大学、機械工学の教授ですが(同書の著者略歴による)研究者に似合わず現場の状況、最前線の技術者の心理にも理解が深いようです。この本は多くの事故、失敗を例にそれから教訓を学ぶにはどうするかを教えています。技術系の問題ばかりでなく、経営、組織運営、営業、サービスなどどこでも問題になる事故などを扱っています。

 私は年間百数十冊の本を読んでいますが、この本は昨年もっとも感銘を受けた本の一冊です。下手な書評より下記に原文をいくつかのせましたので参考にして下さい。

 JCOの臨海事故などに対して「日本の技術基盤が崩れかかっている」という論調かあるがこれは一方的な見方である。・・・いずれのケースも日常的な失敗とのつきあい方そのもの問題があり、いわば失敗とうまくつきあうことができなかったことが原因の事故だと、私は考えています。

 人は「聞きたくないもの」は「聞こえにくい」し、「見たくないもの」は「見えなくなる」ものです。しかし失敗を隠すことで起きるのは次の失敗さらに大きな失敗より大きなマイナスでしかありません。大切なのは失敗の法則性を理解し失敗の原因を知り失敗が本当に致命的なものになる前に未然に防ぐ術を覚えることです。これをマスターすることが小さな失敗経験を新たな成長へ導く力にすることになります。

 失敗情報は伝わりにくく、時間がたつと減衰する。失敗情報は隠れたがる、単純化したがる、変わりたがる、神話化しやすい、ローカル化しやすい。

 私自身の体験からもなるほどと思うことがたくさんあります。

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2005年8月23日 (火)

本は自分の価値観を反映している

hondana   その人がどういう人であるか本棚を見るとよい。同様に自分の本棚は自分がどういう人間であるかを表している。1冊、2冊はその時の気まぐれかもしれないが何年もかかって集めたものはその人の価値観を表し、その人の考え方、行動に影響を与えているといって間違いないだろう。

  先日、思い立って本棚の整理を始めた。1冊、1冊手にとって行くとその本を読んだときの状況がいろいろ思い出されるのである。ヘーゲルの「歴史哲学」など二十歳代前半に読んでいる。よくぞこんな本を、とわれながらほほえましくなる。最近はというと情報整理とか時間管理の本、いわゆるビジネス書とかハウツーものというわりに軽い本が多い。別にハウツーものが悪いわけではないが若いころに比べるとずいぶんとやわになったものとまた苦笑する。

  こんな調子だから本来の本の整理は一向に進まない。見かねたアシスタントがアトランダムに本棚に収納していってあっという間に片付いた。本に対する思い入れが強いと整理は行き届かないという教訓である。

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2005年8月18日 (木)

業務日誌のすすめ

 仕事の能力を飛躍的に向上させる特効薬はないが、確実でもっとも効果的な方法は仕事場での経験や成功、失敗経験を総括、記録し、次の現場に生かしていくことだ。

 書くことによって次の効果が期待できる。
1.目の前で起こったこと、自分の経験したことを客観的に見ることができる
2.そのことで頭の中で何回も繰り返し再現できる(学習の基本はくりかえすことである)
3.他人に伝えることで経験を共有できる。
4.そのことでいろいろな角度から検証できるのでそれから得られる情報を高度化できる

一方、もし書かない、記録しないとどうなるだろうか。あらゆる行動が個々人のカンや経験で行われる。他人に伝えようとしてもせいぜい数人にしか伝わらない。しかもきわめて曖昧なままでしか伝わらない。

 (業務日誌のすすめ)

 仕事の能力を飛躍的に向上させる特効薬はないが、確実でもっとも効果的な方法は仕事場での経験や成功、失敗経験を総括、記録し、次の現場に生かしていくことだ。具体的には日常的に業務日誌を書くことである。どの会社でもその名称はともかく、必ず業務日誌の類を書かされるはずである。そうしないと誰がどこで何をしたのか分からないし、あとでその仕事を検討しようとしてもできないからだ。ところが私生活では誰からも強制されないので、書くか書かないか個人の意志にしだいである。

  本気で自分の仕事力、能力を向上させたいと思うなら、従って自分の人生を真剣に生きてゆきたいと思うなら、まず第1に業務日誌を書き始めることである。

 なぜ業務日誌かというと答えは簡単である。それはネタ切れにならないからである。ブログでも同じだが市販の本には技術的なことが書いてあり、ブログを開いたその日から情報を世界に発信でき、見知らぬ人と意見交流ができるようなことが書いてある。理論的にはそうだが現実にはすぐ壁にぶつかる。問題の本質は技術的なことではなくそもそもネタ不足の問題なのである。私たちが文章を書けない最大の理由は「書く材料がない」つまりネタがないことなのである。その点、業務日誌は仕事をしている以上、ネタ切れになることはない。ただし、「○月○日○○会社を訪問する。担当者にカタログを渡した」のように、ほとんど毎日同じ記述になる可能性はある。しかしそれはそれでよいのである。特別なことはそうひんぱんに発生することはないからだ。

 とはいうもののここにも実は大きな問題点がある。同じ記述になるかどうかはその人の感性によるということである。同じ現象を見てもある人にとっては「何も起こらなかった」と観察するかもしれないが、別の人が見ると「変化の前兆かもしれない」と見るかもしれない。だから業務日誌に限らず書かれたものはその人の感性を表しているのである。

 しかし、はじめはこのことについては あまり気にすることはない。とにかく書き始め、書き続けること大事なのである。

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2005年8月16日 (火)

量をこなすこと、繰り返すこと

 量をこなすこと、繰り返すこと、記録を残すことが能力がふつうかそれ以下の人が人並み以上の成果を上げるもっとも基本的な方法である。よく市販の本には「効率を上げるために優先順位の高い仕事から手をつけてゆくこと」が提唱されている。このことを否定するものではないが落ち着いてよく考えれば、効率を上げるためには経験とそれ相応の能力が必要だからだれでもできることではない。またどれが優先順位の高い仕事であるか分からないから苦労しているのである。それが分かること自体が能力のある証拠であるから能力の低い人にできるものではない。

 ではどうするか初歩の段階(実際はそのあとの高い段階でも)では量をこなすこと、繰り返すこと、記録を取ること、であり最初から効率を求めない方がよい。

 知的生活の基本は読書だが年間百冊以上読み続けることが必要ではないか。そのためにはつべこべ言わずに継続して読み続ける仕組みが必要だ。意志と努力も必要だが普通の人間の意志などそんなに強いものではない。どうするか。環境に配慮することだ。たとえば電車通勤している人は読書以外にあまりすることがないから本を読むだろう。これがヒントである。「本を読む以外に他にすることがないように自分を追い込むことである」。

 パソコンのない環境に一定時間自分をおくことを真剣に考えるべきである。パソコンがあるとつい目的もないのにあっちこっちホームページを見てしまう。市販の本には「必要のないホームページは見ないこと」と書いてあるが、わかちゃいるけどつい見てしまうのが普通の人間である。そのためには、わたしは「見ようにも見られない環境に自分をおくこと」が重要だと思う。これは自分がいかに意志の弱い人間であるか告白しているようなものだが。

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2005年8月12日 (金)

特命全権大使「米欧回覧実記」を読む(2)

 前回、私の驚いたことは「西洋の進んだ事物を冷静に観察し、記録する合理的な精神を持った日本人が幕末から明治にかけて広範に存在していた」ということでした。これをどのように理解したらよいのか、しばらく私は考えていました。彼らの当時受けた教育は中国の古典と江戸期の国学思想であったと思われます。幕末のころ少数の外国人がたとえば横浜あたりに住んでいたとしても、その影響が広範に及ぶことは物理的にも不可能ではないか。私は今までそのように考えていました。

 そこでわたしは次のように仮定しました。「彼らの学んだ中国の古典や日本人の考え方そのものにもともと合理精神があったのではないか」と。

 古典の部分的なつまみ食いみたいですが、たとえば論語には次のような文が見られます。
「民の義を努め、鬼神を敬してこれを遠ざく、智と言うべし」(人としての正しい道にはげみ、心霊は大切にしながらもこれから遠ざかっている、それが智恵というものだ)

「子、怪力乱神を語らず」(先生は神秘的なことは口にされなかった)

また、剣豪、宮本武蔵もどこかでこう言っています。
「神仏は尊べどもこれに頼らず」(神仏は大事にするけれども、真剣勝負の時にこれに頼るようなことはしない)

 日本人にはもともと神秘的なものより現実を重視する素地があったのかもしれません。そしてそれが明治期に西洋文明を受け入れるとき、よい方向に作用したのかもしれません。もっとも日本人のこういう性質がどの場合にも良いとは思いません。時には悪い方向に作用することもあるのでしょうが、とにかく明治期にはよい結果を生んだ、ということなのでしょう。

  まことに自分の浅学の思いつきで恥じ入るばかりですが、私にとってはここ数年来の「発見」のような気がしています。(終わり)

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特命全権大使「米欧回覧実記」を読む(1)

kairan  明治維新後間もないころ新政府はアメリカ、ヨーロッパに視察のための使節団を派遣しました。これをいわゆる岩倉使節団といいますが、この使節団の公式記録が「米欧回覧実記」なのです。これを読んでいるうちに私は「これはすごい本だ」と直感しました。

何がすごいのかというと
1)風景、人々、政治、経済、文化、産業、技術等あらゆることを詳細に記録している。
2)それらを観察し記録できる知性的な人々が幕末から明治の初期のころの日本にいたということ。
3)単なる記録を超えて今後の国家建設に何が必要か情熱的に訴えていること。

 私は心の中で「これはすごい!」と何回も叫びました。というのは幕末から明治にかけてのわたしのイメージを一変させたからです。

 幕末期は薩摩藩を始め日本全国に有為の人物を輩出させましたが、いくら何でも現代的な合理主義精神を持った人物はまれであろうと思っていたのです。ところがこの本を読んでこの考えは一変しました。この時代すでに西洋文明を冷静に観察、記録し、理解できる知性を持った人々が幕府とか薩摩、長州とかに関わらず日本全国に広く存在していたのではないか、とわたしは考え、そして彼らは漠然とではあるが西洋文明と日本の今後のあり方について共通認識を持っていたのではないか、と私は考え始めたのです。

 このように考えると明治維新という政治革命、文化革命が多少の戦闘はあったものの、政権委譲や社会変革が概してスムーズに行われたことが理解できます。

 使節団は各地で大歓迎を受け、友好的に迎えられています。そしてこの記録も西洋諸国に対して好意的にかかれています。しかしそれから50年後、国内には偏狭なナショナリズムや軍国主義が台頭し、戦争に突入、国民を悲惨な状態に導いてゆきます。なぜこういうことになったのか、この間に何があったのか、私には新しい疑問が浮かび上がってきました。
<参考>
特命全権大使 米欧回覧実記(1)~(5)
  久米 邦武 編    岩波文庫
  同書に関する関連図書は多数あり

岩波文庫は全5巻、全て文語調です。読むのに苦労しますが文語調は文章にリズム感があり格調高いものです。他解説書が多数あります。

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2005年8月11日 (木)

観察力と表現力

 情報というものは私たちがその対象に興味の目を向けたとき、はじめて得られるものです。

 ここ2年くらい仕事の合間を見て英語の勉強をしてきました。上達のほどは別にして、英語で会話なり、スピーチなりをする中で気づいたことがあります。会話やスピーチがうまくいかない原因はもちろん語学力の能力の問題でありますが、それ以上に観察力、表現力の欠如に問題がある、ということに気づきました。

 簡単に言えば、英語だから表現できないのではなく、日本語でもできないということです。言うまでもなく観察力は自然や社会、人間から情報を取り入れる能力であり、そのためにはまずそれらの対象に興味を持つことが必要です。一方、表現力とは得られた情報を加工し、あるいはそのままの状態で言葉なり、図形なりで相手に理解させる能力です。これについてはそれなりの技術が必要です。私たちはこれらの技術についてまとまった教育を受けてきていません。

 私たちのまわりにも延々と長時間しゃべったあげく、結局、何を言いたかったのか不明であることにたびたび遭遇します。いや、テレビの討論番組でさえそういう状況です。
よくあるまちがいの例ですが
1)事実と意見を混同する
 見てきた事実を言っているのか、自分の意見を言っているのか、はっきりしない。その結果、事実を自分の意見に都合のいいように、意図的にあるいは無意識のうちにゆがめてしまう。

2)少ない事実から多くの結論を得ようとする
 偶然起こったかもしれない、ひとつふたつの事実から普遍的な原理のようなものを導く。ものごとはいろいろな角度から観測、検証する必要があります。

3)すじみちの立て方のまちがい
 推理のやり方には論理学をベースにしたきまりがあります。ところが日本人と日本社会ではこれが通用しないケースがあまりに多のが現状で、論理と感情の混同が多い。

 いずれにせよ観察力と表現力はこれからの社会生活、ビジネス社会ではますます重要になってくるのではないでしょうか。

 わたしは最近、野の草花に興味を持ち始めました。これまで「雑草」と片づけてきた植物に名前があり、分類があり、習性があり、そこで繁茂する自然的あるいは社会的な事情があることがわかってきました。これは一例ですが、情報というものは私たちが興味の目を向けたとき、はじめて得られるものだということを表しています。

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2005年8月 9日 (火)

取材旅行のすすめ

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 旅行にもいろいろあるが取材旅行というものがあってよいのではないかと思う。取材旅行といえばテレビや雑誌関係、あるいは物書きの人などを思い起こすが一般の人でも取材旅行、別名、大人の修学旅行があってよいのではないかと思う。

 この場合、原則として個人旅行になる。普通の観光旅行と違うのは観光地に行くこともあるが必ずしもそれだけでない。普通の市民が住んでいる住宅地を歩いて直接市民生活を観察してみるのだ。それだけでも多くの情報を得られる。たとえば家の広さはどれくらいか、住んでいる人たちのどういう人たちか、店やスーパーはどんな感じか、学校はどうか、などなど観察してみる。観察といっても学者ではないのだからそれほど厳密でなく自分の住んでいる環境と比べてどうか、人々の習慣はどうかなど肌で感じることだ。

 たとえば横断歩道について日本では歩行者優先で青信号もまあ人がわたりきる時間が確保されている。アメリカやイギリスなどにも横断歩道と信号があるがはっきり言って短い。まあその前に信号を守る人が少ない。

 お墓はどうかといえば日本は先祖代々の墓だが、アメリカ、イギリスでは個人単位か夫婦単位だ。アメリカ東部のニューヨークやワシントンDCでは平らで上が三つ葉の形をした石板が使われている。イギリスにもその類があるが十字架形もある。一般に日本人ほどには墓にこだわりがないようだ。それに数も少ないようだ。個人単位、夫婦単位だからもっと多くありそうなものだがそれほどないところを見るとそもそも墓を作らないのかもしれない。

 ドイツ人は日本人と同じように勤勉だといわれている。しかしながら道路工事現場を見て歩き回ったが働いている人は少なかった。スーパーは平日5時まで、土日は休みだそうだ。4時半頃入店するといやな顔をされるという。これは現地の人から聞いた話である。また環境問題では進んでいるといわれているが、ある大学でゴミ箱をのぞくと分別はいいかげんだった。その話を現地の人にしたら大学はどこでもそんなものだと話してくれた。

 このように取材旅行では一般市民の日常生活を日本との比較で観察してみるのである。あと書店や図書館などにも入ってどんな本がおいてあるか、どんなシステムになっているか観察してみる。アメリカでは書店にはカフェが併設されていることが多い。買った本をそこで読むのだろう。ジャンルは日本と似ているがアメリカ、イギリスで気づくことは伝記、自叙伝のコーナーが割合スペースをとっている。日本で自叙伝を書くことはまあ少ないが、向こうでは成功した人も失敗した人もその記録を残していくようで、またそれを読む人が多いということだろう。こんなちょっとした文化の違いを観察することも取材旅行の目的である。

 ただし何の予備知識もなくいって観察することはできない。できたとしても表面的なものになる可能性が大きい。だから行く前に本を読むなりして予備知識を付けておくことが肝要なのだ。こうすることで観察が深くなり取材旅行を有意義にできる。

                                     りょうた










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2005年8月 8日 (月)

マスコミとの知的なつきあい方

prisoner

 参院での郵政法案をめぐって波乱があったから書くわけではないが、政治やマスコミとのつきあい方はスマートにすべきです。特に若い人たちは政治に関心を持つべきでしょうがあまり深入りすべきではありません。大事なことはしっかりした考え方、物事の見方を身に付けることです。それと健全な正義感を持ち続けるべきです。

 感受性の強い若い人たちは何か新しそうなことを情熱的に言う人、団体の影響を受けやすい。政治家やマスコミもそれほど重要でないことをさも国の一大事みたいに言うが、そんな一大事がひんぱんに起こるはずがない。逆に本当に重大なことが何事も なかったかのように流れてゆく。

 しかしながら若い人たちの正義感は必要だしうらやましく思う。ある程度、歳を取ると悪いこととは思いながら、実利の方を選択する。イラク戦争はまさしくそういう事例でした。国際政治に正義などない、あるのは利害と力だけだと主張が堂々と通っている。もちろん全面的に否定するものではないが、ほんとうにそうかなと疑ってみるべきです。イラク戦争の開戦理由などとっくの昔に破綻している。もっと意地悪な言い方をすれば指導者たちはそれを十分承知の上で始めたのかもしれない。そして私たちの指導者もそういう事情を知っていながら、あるいは知らないふりをして支持、派兵したのでした。

 さて、この件についてマスコミはしっかりした検証をし、批判をしたでしょうか。全くしていないなどとは言いませんがきわめて不十分です。なぜか。一つはネタ不足なんでしょう。だいたい情報源の多くが政府発表の記事ですから書くにかけないはずです。テレビなどさらに悲惨です。映像がないと間が持たないのです。北朝鮮関連のニュースではミサイル打ち上げの様子が繰り返し繰り返し流されています。あれなど情報操作というより他に適当な映像がないのが本当の理由ではないかと私は思っています。

 一見、マスコミは政治を批判しているように見えるがいわば同じ業界にいるようなもので持ちつ持たれつの関係にあるわけです。一応批判しないと新聞は売れない、かといって批判しすぎるとつぶされる。最近あった某新聞社と某放送局の騒動もそういう見方で見るとおもしろい。

 誤解のないようにわたしは新聞を2紙、テレビのニュースもNHK、BBCなどよく見ています。政治もマスコミも大事なんです。ただそれが全て真実だと思わないことです。いいかえれば健全な批判精神が今も昔も大事なんです。

                                   りょうた

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2005年8月 6日 (土)

使える英語のためのコツ(2)

borders

ウソでも良いから英語を物にしたいと熱望している方々へのわたしの経験を紹介します。
英検やTOEICの点数を上げたい、仕事で必要といった方々は対象外です。

(アメリカ書店巡り)
前回書いたように書店に初心者が読みたくなるような本がなかったというのが私の経験です。もちろんペンギンリーダースのような良書もありましたが、こちらの好奇心を満たすという点では不十分でした。そこでインターネット書店のアマゾンから買うようになる以前、アメリカに行く機会にアメリカの書店巡りをしました。

アメリカではバーンズアンドノーブルスとボーダーズの2大書店が全国展開しているそうです。そういうところで子供コーナーに行くと日本と同じで科学物、歴史物、小説などがありました。あまりに当たり前といえば当たり前なのでしょうが日本の書店の洋書コーナーにはなかったのですから何だか新鮮か感じがして大量に買い求めたものです。ただしお金とスーツケースのスペースには限界がありましたが。またあちこちの博物館、観光地に行ったときに観光ガイドやパンフレットの類も購入しました。

(読書量が爆発的に増える)
そういうことで興味のある本を買ったのですから帰りの飛行機の中からどんどん読んでいきました。それまで年間せいぜい30冊から50冊だった洋書の読書量が爆発的に増え始めました。興味本位と実際自分がそこに行ったという親しみからあきることはなく、逆に大量の読書の結果買い込んだ本が瞬く間に底をついたのでした。

(インターネット書店アマゾンで検索してみる)
一種の禁断症状を呈してきました。それで買ってきた本がアマゾンにないか調べてみたのです。そうするとなんとなんとわたしがアメリカで買い込んできた本の大半がアマゾンにあり購入できることがわかったのです。わたしが数十万円かけてアメリカに行ったことがムダだったとはいいませんが結果はそういうことだったのです。それから注文をどんどん入れてゆきました。値段は現地で買う値段の5割り増しくらいですがいくら何でも飛行機賃よりは安いでしょう。こうして前回書いた(おもしろい本をどこで探すか)(インターネットショッピングのコツ)になるわけです。

(興味のあるジャンルを作る)
最初の頃、Hinemann とい出版社の伝記物などシリーズ物を注文してゆき、興味あるジャンルと相性のいい出版社をつくってゆきました。前回も書いたように失敗もありましたがそれは良い本と出会うための必要経費と割り切ってゆきました。ちょっと怖くなりますが1冊1000円として100冊では10万円になります。つまり数十万円を本の購入費に充てたことになります。これが高いか、安いかは各人の価値観になるのでしょうが語学の学習では、いや他の学習、遊びでもそれ相応の金が必要なことは確かなようです。

(アマゾンを持ち上げるわけではありませんが)
ですからアマゾンを持ち上げるわけではありませんがわたしにとってインターネット書店アマゾンがなければ大量の洋書を読むことはなく一生手にすることのなかったのではないかと思っています。わたしはインターネットを万能とは思わない人間の一人ですが、インターネットの良い面、機能を上げるとすればメールとブログとインターネット書店ではないかと思っているのです。

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2005年8月 4日 (木)

使える英語のためのコツ

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 だれがなんと言おうと私は「英語は難しいものだと」断言する。もっと正確に言えば日本語を含めて語学というものは難しい学問だということだ。日本人 は学校で何年も勉強するのにあいさつひとつまともにできないといわれる。だから英語教育がまちがっている、という論拠にされる。わたしはこれらの意見を否定するものではないがそれよりこの現実をすなおに見る限り「英語は難しいものだ」という事実を表しているだけのことではないか。わたしはお世辞にも英語ができる種類の人間ではない。それゆえにわたしの体験が英語初心者、難民には役に立つのではないだろうかと思うのである。

(読む能力が重要)
 英語のなかで一番重要な能力は何なのかと考えると世の多数派とは違う意見かもしれないがやはり読む能力だと思う。2番目が聞く能力だろう。あとの話す、書くは重要でないとは言わないが読む、聞く能力があれば自然についてくるのではないか。

(読む能力をいかにつけるか)
 さて読む能力をいかにつけるかということだがわたしの経験からは子供向けの本を大量に読むことが有効だと思う。インターネットを調べるとそれを実践している人たちがおられるようであるが私は自分の経験からそう思うのである。大量に読むことを継続する秘訣はおもしろい本を読むことである。もちろん「おもしろい本」は個人によって違うので具体的に言うことはできない。私の場合科学の本、歴史物、伝記、各国の案内などを読んでいる。子供の本と言っても小学校の上級生くらいになるとかなりのレベルになるので大人が読んでも違和感はなくいろいろ勉強になる。

(大量に読む)
 「大量に読む」とは具体的にどれくらいのことを言うのかというと平均50ページくらいの本を年間で百冊から二百冊くらいだ。初心者はこの数字に驚かされるかもしれないが慣れてくれば実行可能である。私の場合三百冊読んだあたりから英語がぐんと身近に感じられるようになった。それ以前に英字新聞も半分見栄で購読していたときがあるが単語力はある程度ついたかもしれないが初心者に有効とは思えない。コツはおもしろい本を大量に読むことである。好奇心を行動のエンジンにすることだ。

(おもしろい本をどこで探すか)
 洋書を扱っている書店には子供コーナーがある。しかし残念ながら私の興味を引く本は本当に少ない。今さら言うほどのことでもないがインターネットショッピングに「AMAZON(アマゾン)」がある。ここで「洋書」をクリックしてチルドレンズを選択して以下ジャンルを絞り込んでゆく。チルドレンズブックには対象年齢が表示されるのでこれを参考にすると良い。わたしは12歳向けをよく読んでいる。プライドが許さないかもしれないがこれくらいだと辞書はほとんどいらない。レベルもそう低くない。場合によっては8歳向けの本も読むこともある。実際に購入するためには最初に会員登録が必要である。

(インターネットショッピングのコツ)
 まず多少の失敗を許容することだ。書店では実際読んでみて購入するかどうか決めるがネットショッピングの場合それができない。はっきり言ってそれを許容することがコツではないかと思う。最初の頃自分が予想していたのと全く違う本が届いて苦笑いしたものである。ある時など「イギリスのお城」という本を注文したら塗り絵の本だったということもある。しかし失敗はだんだん少なくなってきた。理由はおもしろい本に出会ったとき同じシリーズの本を注文したり同じ出版社や同じテーマの本を注文していったのでアメリカやイギリスの出版界の事情が薄々わかってきたからだ。日本では岩波文庫はどんな本、ブルーバックスは科学系とか新潮社はこういう系統の本を出版するとか知っているがアメリカやイギリスの出版界の事情が薄々ながらわかってくるということなのだろう。

以下次回に続く

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2005年8月 3日 (水)

「読書百遍」の意味

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書店にはパソコンの本、英会話の本など短期間に効率よく技能を身につける本がたくさん並んでいる。
わたしは短期間に効率よく技能を身につける人たちがいることは否定しない。同時に世の中の大多数はそうではないこともよく知っている。

ではそういう人はどうすればよいのか。どれでもよい。1冊の本を繰り返し読むことだ。本選びは慎重にすべきだが必要以上に時間を費やすべきでない。

その本の内容を「少しだけ」理解しようと思ったら10回くらい読む必要があるのではない。
「本気で」理解しようと思うなら30回くらい繰り返し読む必要があるのではないか。

「読書百遍、意自ずから通ず」という言葉がある。わたしはこれまでこれは何回も読むことのたとえだと思っていた。しかし最近ではここでいう「読書百遍」はたとえではなく本当に100回読むことだと思うようになった。ここまでやると少々の能力の差など超越してしまうからだ。

                                         りょうた

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わたしの知的生活術

battyanyaki 書店に行けばたくさんの情報術、仕事術の本が並んでいる。
なるほどと思い実行してみるが多くの場合、途中で挫折してしまう。
過去何回挫折したことだろう。それぞれの方法がまちがっていたなどと主張するつもりはない。多くの場合自分の能力と忍耐力の欠如こそ挫折の原因だったと思っている。こうして多くの失敗を経験した結果、こういう結論に至った。

1.万人に通用する情報術、仕事術というものはないのではないか。
2.少なくとも万人に通用する情報術、仕事術というものを発見したと思うのは幻想ではないか。
3.結局、情報術、仕事術というものはきわめて個人的な性格が強いのではないか。

わたしは学者でも何でもない。人に言えるほどの学歴もなく、教育も受けていない。
しかし今にして思えば学ぶことは好きだった。その多くは本から学んだ。
そういう経験をもとに「わたしの知的生活術」を書いてゆきたい。

                          りょうた

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