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2006年7月22日 (土)

「議論のレッスン」という本

(自分の言っていることさえ分からない)

 世の中分からないことが多いもので、私が長年疑問に思っていたことが人間同士のコミュニケーションがなぜうまくいかないかということだった。もっとせまくいえば会社やグループ内での会議でさえ相手のいっていることがよく分からない。いや相手だけでなく自分の言っていることさえ発言している最中に「なんか違うなあ」と心の中で思うことがよくある。

 例によって行きつけの書店でディベートの本を見つけた。ディベートに興味があったわけではない。ディベートの技術を身に付けて会議の場で相手を言い負かせてやろうなんてそういう趣味はさらさらない。ただ、相手の言っていることをしっかり理解し、自分の言いたいことを明確に言いたいという、ただそれだけである。

(第一の発見:議論は真理を追究するものではない)
 ディベートは一種のゲームである。またそれは真理を追究するというものでもない。あるテーマにおいて相反する主張のどちらがより説得力を持つかを争うゲームである。そもそも議論そのものが真理を追究するものではない、ということに気づいたのが第一の発見だった。わたしは(そしてほとんどの人が)議論は真理を追究すると暗黙のうちに思っているから相手を理解することが難しくなるのだろう。

(第二の発見:議論には構造が必要だ)
 ディベートの本から学んだことは意見というものはなにがしかの構造をもっていなければならない、というものだ。これが第二の発見である。それには主張があり、根拠なりデータがなくてはならない。そしてその根拠から主張が導き出されるという論証が必要だ。まともな意見にはこれらが必要なのだ。私が遭遇した議論の多くが構造上欠陥があったのだ。だから「おかしい」とか「意味不明」とかいう感じが漂っていたのである。つまり会議での発言にそもそも主張がなかったり、その根拠がなかったりその論証があまりにお粗末だったりしたのだ。いや人のことばかり言えない。私自身の発言も議論の構造など考えていないから意味不明なことが多かったのだ。

 そういうことを発見したもので関連する本を数冊読んでみた。もうディベートどころではない。そもそも人間が物事を判断し理解するメカニズムを知りたくなった。何冊か読んだ中で早稲田大学教授の福澤一吉氏の「議論のレッスン」という本から大きな感銘を受けた。ここではじめて「議論の構造」という言葉が出てくる。氏は「私たちには議論のスキルが欠けている」と指摘している。実は第一の発見、第二の発見を再認識したのはこの本を読んだときである。

 日常会話や公式の会議が分かりにくい原因はかくされた根拠、暗黙の共通認識、了解事項あるいは論理の飛躍があるからである。

(第三の発見:議論はそもそも難しい)
 日本人の多くが多用する「やはり」ということばについて政治学者の丸山真男氏と哲学者の鶴見俊輔氏との対談を例に挙げて分析している部分はおもしろい。議論を延々とやってきて「やはり」という言葉が出ると水戸黄門の印籠と同じで(このたとえは私の表現です)ここで議論が停止してしまう。そういう意味で「やはり」は危険な言葉であるから注意して使うべきだ、といっている。

 さて、議論はそれほど難しいものだろうか、ということになるが福澤氏ははっきりと「物事を主張するというのは難しい」といっている。アメリカではこの議論のスキルについて大学だけでなく大学院の博士課程でも延々とやるそうである。

興味のある方はどうぞ。

  書籍名:初めてのディベート 
  著 者:西部直樹
  出版社:あさ出版

  書籍名:議論のレッスン 
  著 者:福澤一吉
  出版社:日本放送出版協会(NHK出版)
          生活人新書

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