2005年8月23日 (火)

本は自分の価値観を反映している

hondana   その人がどういう人であるか本棚を見るとよい。同様に自分の本棚は自分がどういう人間であるかを表している。1冊、2冊はその時の気まぐれかもしれないが何年もかかって集めたものはその人の価値観を表し、その人の考え方、行動に影響を与えているといって間違いないだろう。

  先日、思い立って本棚の整理を始めた。1冊、1冊手にとって行くとその本を読んだときの状況がいろいろ思い出されるのである。ヘーゲルの「歴史哲学」など二十歳代前半に読んでいる。よくぞこんな本を、とわれながらほほえましくなる。最近はというと情報整理とか時間管理の本、いわゆるビジネス書とかハウツーものというわりに軽い本が多い。別にハウツーものが悪いわけではないが若いころに比べるとずいぶんとやわになったものとまた苦笑する。

  こんな調子だから本来の本の整理は一向に進まない。見かねたアシスタントがアトランダムに本棚に収納していってあっという間に片付いた。本に対する思い入れが強いと整理は行き届かないという教訓である。

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2005年8月12日 (金)

特命全権大使「米欧回覧実記」を読む(2)

 前回、私の驚いたことは「西洋の進んだ事物を冷静に観察し、記録する合理的な精神を持った日本人が幕末から明治にかけて広範に存在していた」ということでした。これをどのように理解したらよいのか、しばらく私は考えていました。彼らの当時受けた教育は中国の古典と江戸期の国学思想であったと思われます。幕末のころ少数の外国人がたとえば横浜あたりに住んでいたとしても、その影響が広範に及ぶことは物理的にも不可能ではないか。私は今までそのように考えていました。

 そこでわたしは次のように仮定しました。「彼らの学んだ中国の古典や日本人の考え方そのものにもともと合理精神があったのではないか」と。

 古典の部分的なつまみ食いみたいですが、たとえば論語には次のような文が見られます。
「民の義を努め、鬼神を敬してこれを遠ざく、智と言うべし」(人としての正しい道にはげみ、心霊は大切にしながらもこれから遠ざかっている、それが智恵というものだ)

「子、怪力乱神を語らず」(先生は神秘的なことは口にされなかった)

また、剣豪、宮本武蔵もどこかでこう言っています。
「神仏は尊べどもこれに頼らず」(神仏は大事にするけれども、真剣勝負の時にこれに頼るようなことはしない)

 日本人にはもともと神秘的なものより現実を重視する素地があったのかもしれません。そしてそれが明治期に西洋文明を受け入れるとき、よい方向に作用したのかもしれません。もっとも日本人のこういう性質がどの場合にも良いとは思いません。時には悪い方向に作用することもあるのでしょうが、とにかく明治期にはよい結果を生んだ、ということなのでしょう。

  まことに自分の浅学の思いつきで恥じ入るばかりですが、私にとってはここ数年来の「発見」のような気がしています。(終わり)

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特命全権大使「米欧回覧実記」を読む(1)

kairan  明治維新後間もないころ新政府はアメリカ、ヨーロッパに視察のための使節団を派遣しました。これをいわゆる岩倉使節団といいますが、この使節団の公式記録が「米欧回覧実記」なのです。これを読んでいるうちに私は「これはすごい本だ」と直感しました。

何がすごいのかというと
1)風景、人々、政治、経済、文化、産業、技術等あらゆることを詳細に記録している。
2)それらを観察し記録できる知性的な人々が幕末から明治の初期のころの日本にいたということ。
3)単なる記録を超えて今後の国家建設に何が必要か情熱的に訴えていること。

 私は心の中で「これはすごい!」と何回も叫びました。というのは幕末から明治にかけてのわたしのイメージを一変させたからです。

 幕末期は薩摩藩を始め日本全国に有為の人物を輩出させましたが、いくら何でも現代的な合理主義精神を持った人物はまれであろうと思っていたのです。ところがこの本を読んでこの考えは一変しました。この時代すでに西洋文明を冷静に観察、記録し、理解できる知性を持った人々が幕府とか薩摩、長州とかに関わらず日本全国に広く存在していたのではないか、とわたしは考え、そして彼らは漠然とではあるが西洋文明と日本の今後のあり方について共通認識を持っていたのではないか、と私は考え始めたのです。

 このように考えると明治維新という政治革命、文化革命が多少の戦闘はあったものの、政権委譲や社会変革が概してスムーズに行われたことが理解できます。

 使節団は各地で大歓迎を受け、友好的に迎えられています。そしてこの記録も西洋諸国に対して好意的にかかれています。しかしそれから50年後、国内には偏狭なナショナリズムや軍国主義が台頭し、戦争に突入、国民を悲惨な状態に導いてゆきます。なぜこういうことになったのか、この間に何があったのか、私には新しい疑問が浮かび上がってきました。
<参考>
特命全権大使 米欧回覧実記(1)~(5)
  久米 邦武 編    岩波文庫
  同書に関する関連図書は多数あり

岩波文庫は全5巻、全て文語調です。読むのに苦労しますが文語調は文章にリズム感があり格調高いものです。他解説書が多数あります。

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2005年8月11日 (木)

観察力と表現力

 情報というものは私たちがその対象に興味の目を向けたとき、はじめて得られるものです。

 ここ2年くらい仕事の合間を見て英語の勉強をしてきました。上達のほどは別にして、英語で会話なり、スピーチなりをする中で気づいたことがあります。会話やスピーチがうまくいかない原因はもちろん語学力の能力の問題でありますが、それ以上に観察力、表現力の欠如に問題がある、ということに気づきました。

 簡単に言えば、英語だから表現できないのではなく、日本語でもできないということです。言うまでもなく観察力は自然や社会、人間から情報を取り入れる能力であり、そのためにはまずそれらの対象に興味を持つことが必要です。一方、表現力とは得られた情報を加工し、あるいはそのままの状態で言葉なり、図形なりで相手に理解させる能力です。これについてはそれなりの技術が必要です。私たちはこれらの技術についてまとまった教育を受けてきていません。

 私たちのまわりにも延々と長時間しゃべったあげく、結局、何を言いたかったのか不明であることにたびたび遭遇します。いや、テレビの討論番組でさえそういう状況です。
よくあるまちがいの例ですが
1)事実と意見を混同する
 見てきた事実を言っているのか、自分の意見を言っているのか、はっきりしない。その結果、事実を自分の意見に都合のいいように、意図的にあるいは無意識のうちにゆがめてしまう。

2)少ない事実から多くの結論を得ようとする
 偶然起こったかもしれない、ひとつふたつの事実から普遍的な原理のようなものを導く。ものごとはいろいろな角度から観測、検証する必要があります。

3)すじみちの立て方のまちがい
 推理のやり方には論理学をベースにしたきまりがあります。ところが日本人と日本社会ではこれが通用しないケースがあまりに多のが現状で、論理と感情の混同が多い。

 いずれにせよ観察力と表現力はこれからの社会生活、ビジネス社会ではますます重要になってくるのではないでしょうか。

 わたしは最近、野の草花に興味を持ち始めました。これまで「雑草」と片づけてきた植物に名前があり、分類があり、習性があり、そこで繁茂する自然的あるいは社会的な事情があることがわかってきました。これは一例ですが、情報というものは私たちが興味の目を向けたとき、はじめて得られるものだということを表しています。

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2005年8月 9日 (火)

取材旅行のすすめ

ohaka

 旅行にもいろいろあるが取材旅行というものがあってよいのではないかと思う。取材旅行といえばテレビや雑誌関係、あるいは物書きの人などを思い起こすが一般の人でも取材旅行、別名、大人の修学旅行があってよいのではないかと思う。

 この場合、原則として個人旅行になる。普通の観光旅行と違うのは観光地に行くこともあるが必ずしもそれだけでない。普通の市民が住んでいる住宅地を歩いて直接市民生活を観察してみるのだ。それだけでも多くの情報を得られる。たとえば家の広さはどれくらいか、住んでいる人たちのどういう人たちか、店やスーパーはどんな感じか、学校はどうか、などなど観察してみる。観察といっても学者ではないのだからそれほど厳密でなく自分の住んでいる環境と比べてどうか、人々の習慣はどうかなど肌で感じることだ。

 たとえば横断歩道について日本では歩行者優先で青信号もまあ人がわたりきる時間が確保されている。アメリカやイギリスなどにも横断歩道と信号があるがはっきり言って短い。まあその前に信号を守る人が少ない。

 お墓はどうかといえば日本は先祖代々の墓だが、アメリカ、イギリスでは個人単位か夫婦単位だ。アメリカ東部のニューヨークやワシントンDCでは平らで上が三つ葉の形をした石板が使われている。イギリスにもその類があるが十字架形もある。一般に日本人ほどには墓にこだわりがないようだ。それに数も少ないようだ。個人単位、夫婦単位だからもっと多くありそうなものだがそれほどないところを見るとそもそも墓を作らないのかもしれない。

 ドイツ人は日本人と同じように勤勉だといわれている。しかしながら道路工事現場を見て歩き回ったが働いている人は少なかった。スーパーは平日5時まで、土日は休みだそうだ。4時半頃入店するといやな顔をされるという。これは現地の人から聞いた話である。また環境問題では進んでいるといわれているが、ある大学でゴミ箱をのぞくと分別はいいかげんだった。その話を現地の人にしたら大学はどこでもそんなものだと話してくれた。

 このように取材旅行では一般市民の日常生活を日本との比較で観察してみるのである。あと書店や図書館などにも入ってどんな本がおいてあるか、どんなシステムになっているか観察してみる。アメリカでは書店にはカフェが併設されていることが多い。買った本をそこで読むのだろう。ジャンルは日本と似ているがアメリカ、イギリスで気づくことは伝記、自叙伝のコーナーが割合スペースをとっている。日本で自叙伝を書くことはまあ少ないが、向こうでは成功した人も失敗した人もその記録を残していくようで、またそれを読む人が多いということだろう。こんなちょっとした文化の違いを観察することも取材旅行の目的である。

 ただし何の予備知識もなくいって観察することはできない。できたとしても表面的なものになる可能性が大きい。だから行く前に本を読むなりして予備知識を付けておくことが肝要なのだ。こうすることで観察が深くなり取材旅行を有意義にできる。

                                     りょうた










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