2006年7月30日 (日)

      台湾雑記-台湾紀行その2-
(台湾博物館)
 私は外国に行くとき必ず行くところがある。一つは博物館であり、もうひとつは大学など教育機関である。それらを見るとその国なり、その都市の文化に対する姿勢が分かり、したがって国民性が分かるからである。
国立台湾博物館はルネッサンス様式の建物であり、実はこの建物は日本統治時代に日本の建築家によって作られた洋風建築である。この博物館だけでなく総督府をはじめ多くの建築物、鉄道、電力設備、ダムなどが日本人によって作られている。あまり日本人が、日本人がというと台湾の人たちはいい気持ちがしないのではないかと思っていたら、前回書いた李さんは「事実その通りなんだ」とあっさり認めた。しかし、それにしても、とわたしは思う。1900年代初期というと明治維新後、日本が急速に近代化を始めたころである。その頃の日本国内にそんな人的、経済的、技術的な余裕はなかったはずである。植民地経営の一面だけでは説明がつかない。やはりその頃の日本人には利害、打算ではなく新しい国土を作ろうという一種の理想に燃えていたのだと思う。試行錯誤して西洋から取り入れ、完成させた建築や鉄道や電力などの技術を台湾で実現しようというそういうロマンチシズムがあったのではないだろうか。だから現在でも感謝する人はいても反発する人が少ないのだろう。

(二二八事件)
 台湾のTaiwan1人たちの心に深い傷を残した歴史的な事件がある。私自身も台湾に行くまで知らなかったことである。日本が戦争に敗れ台湾を去った後、国民党が統治を始めた。台湾住民とのちょっとしたトラブルから抗議行動が発生、全土に広がった。これを鎮圧しようとした国民党政権により以後40年にわたって弾圧が行われた。これを二二八事件といい、「白色テロ」という言い方もされている。1992年政府の発表では2万8千人が犠牲になった、という。多くが日本統治時代に教育を受けた知識人層であったといわれている。
 この事件はつい最近まで公にされることはなく人々の間で語り継がれてきた。アカデミー賞受賞の映画「非情城市」(侯孝賢監督)はこの事件を描いたものである。こういうことを考えていくと台湾の人たちが親日的である理由の一つにはこういう事件の影響もあるのだろうと私は思った。

(道教)
Taiwan2  台湾の至る所に道教のお宮さんがある。大きいのから小さいものまでほんとうにどこにでもある。日本の神社のようなものだ。日本の神社も大きいものから村の鎮守の神までどこにでもあるがそれと似ている。祭っている神様はといえば三国志の関羽や伝説上の黄帝など何人かいるようだが、民間信仰として地元に貢献したような実在の人も祭られている。この辺は日本の神道と似ているので日本人にはたいへんわかりやすい。
 日本と違うのは姿が派手であることと信仰に熱心であることである。大きいお宮さんでは朝早くから夜も遅くまで熱心に拝んでいる人たち姿を見かける。宗派もいろいろあるようだが簡単に言えば理論的に厳格な原理主義の宗派とより世俗的な宗派に分かれるようである。両者はむかしは大規模な抗争にまで発展したようだが、今は共存共栄している。

 神仙思想も道教の中に取り入れられており、前回書いたように台湾の人と話していると時々仙人の話が出てくる。こういう文化的な背景があるのかもしれないが私の理解は未だ浅いところである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月22日 (土)

台湾の日本史跡を訪ねる

(台湾へ飛ぶ)
 台湾に関する本やビデオを見ていたら居ても立ってもいられなくなった。予定の仕事が延期になったのを幸いに飛行機の空席を問い合わしたところ空きがあるとのこと。パスポートと着替えをバッグに詰め込んで福岡空港へと向かった。

ただ今回は海外旅行とはいうものの地理的には沖縄の少し先で距離的には北海道に行くのと変わらないからその分、気が楽だ。福岡空港について気づいたのだが日本人の姿が少ない。9割方、台湾の団体客のようである。飛行機は2時間半で台北中正国際空港に着いた。台北中正国際空港は国際空港とはいうもののそれほど大きな空港ではなく歩いて1周できるくらいの大きさである。ゲートを出ると「シャチョウさん」とタクシーの運転手らしき数人から日本語で声をかけられる。タクシーに乗るのは簡単だがまだ日も高いし、言葉が通じなくてもバスを利用することにした。

 切符売り場で「わしぃ、りっぷんらん」(わたしは日本人です)といってから行き先を書いた紙切れをわたすと切符が買えた。運転手に台北市内の民権西路(ミンチェンシールー)で下りることを告げる。なぜなら車内ではアナウンスはなく乗客は勝手に乗り込み、勝手に降りてゆくからだ。民権西路駅からさらにあちこちで英語、中国語、日本語で道を尋ねながらなんとかホテルに到着した。

 おちついてホテルの周辺を眺めると銀行のビルが建ち並ぶ賑やかな通りだった。路地に入ってゆくと屋台村になっていた。またコンビニエンスストアの数も日本以上に多かった。

(内湾小学校訪問)
 翌日はさっそく台湾映画「川の流れに草は青々」の舞台になった内湾小学校を訪問することにしたNewansyogakkou。台北駅から列車で百Km南部の新竹市に行き、そこから列車を乗り換えて内湾村に向かう。思ったよりスムーズに到着できた。映画のように内湾小学校 があり、き~ん、こ~ん、か~んとチャイムも鳴っていた。

 一方、駅前通りはと言うと映画と違ってすっかり観光地になっていて日本と同じでレストランやみやげ物屋さんが並んでいた。事情はよく分からないが付近一帯は「歴史的建造物保存地区」か何かになっているようだった。

(山の仙人に会う)
 次の日は有名な故宮博物院を訪問する予定だったが時間が早いので芝山巌公園に立ち寄ることにした。この芝山厳公園は普通の旅行ガイドにはなぜか出てこない。私自身も何かの本をSizankouen読んで行くことにしたのだがそこに何があるのかうかつにも忘れてしまった。

 まあ、行けば分かるだろうとの気軽な気持ちで出かけた。地下鉄芝山駅で降りてコンビニで買った地図を頼りに歩いてゆくとどうやら山の裏側についてしまったようだった。まわりの家々を眺めながら山のまわりをぐるりと歩いてゆくとやがて公園の正面についた。神社の石段のようなものが見えてきて写真を撮っていると突然「あなた日本人でしょう。私が案内してあげるからこっちに来なさい」と散歩中のお年寄りから声をかけられた。

 李さんというお年寄りの話によるとここ芝山厳は日本統治時代に学校があってその後、殉職した教育関係者を祭る神社のあったところだという。この李さんという方はむかし日本の教育を受けてきたことを誇りに思っていて有志で史跡を守っているとのこと。それから「あなたにもうひとり会わせたい人がいる」と言って歩いていくと遊歩道の向こう側に李さんよりさらに年配のご老人が立っていた。

 わたしは日本人でありながら台湾にこういう史跡があり、台湾の人たちが保存ために尽力していることを知らなかったことを謝罪し、また感謝の言葉を伝えた。それからこの張さんというご老人をかこんでいろいろ話し込んだ。日本統治時代のこと、歴史、哲学、文学、数学(この張さんは英語、日本語、中国語を話す数学者だった)の話題で昼過ぎまで話し込んだ。何かの記念にと手帳に名前を書いてもらったが住所は書いてくれなかった。理由を尋ねると私たちはこの山に住む仙人のようなものだから住所はないのです、とユーモアとも本気ともとれるような答えが返ってきた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 6日 (月)

ドーヴァー城

doverDSCF1530  イギリスは鉄道発祥の地であり鉄道網がよく発達、整備されているのでたいていの所へは電車で行ける。ロンドンについて言えば主要な駅が10カ所ほどある。接続する方向によって到着駅が違っていて、前回書いたマンチェスターからの電車はロンドン北部のユーストン駅に、ドーヴァーなど南部の都市からの電車はヴィクトリア駅に到着という具合である。さらに特徴的なのはイギリスの鉄道事業は分割、民営化されておりその影響で複数の鉄道会社が同じ駅に乗り入れている。たとえるなら日本の空港にいろいろな航空会社が乗り入れているようなイメージが近い。そのため料金がバラバラな上に、日曜割引、往復割引、事前購入割引など複雑で何がなにやらさっぱり分からない。ところが心配はご無用、切符購入窓口は統一されていて、特に指定しない限り一番安い料金の切符を勧めてくれる。

 ロンドン市内を2日間歩き回った私は3日目、歴史的にヨーロッパ大陸との玄関口であったドーヴァーを目指した。ドーヴァーはロンドンから約150Km、電車で2時間弱、日帰りできる距離である。

 プライオリー駅でおりて町の中心部へ歩いてゆく。日本で見慣れている風景と何となくにている。歴史的に日本人がイギリスに対して持っている親しみやすさはこういうところにもあるのだろう。15分ほどで町の中心部の到着したときには海鳥が「きぃー、きぃー」鳴きながら低空で舞っておりドーヴァーが港町であることを実感した。目指すドーヴァー城は100mほどの丘の上にある。歩いて上れない距離ではないが体力温存のためタクシーで乗り込む。やがて城外の駐車場で下りて入場券を買う。日本と違うところは改札口、改札の係はいないようで、その代わりちゃんと料金を支払った印に胸にワッペンをつける。

 ドーヴァー城はローマ人が砦を作り12世紀ごろ、ヘンリー2世が城を築いてその起源となった。第2次世界大戦時には司令部も置かれ要塞としても使われた。これほど古代から現代まで使われた城もめずらしい。ドーヴァーは「ヨーロッパ大陸との玄関口」と書いたが、実は守りの最前線であったのである。
 私が訪問した日は何かの記念日だったらしくイギリス軍の後援会や退役軍人会が展示会や演奏会などを行っていた。城の中は日本と同様に歴史展示場になっている。ほとんど石造りの中がどうなっているのか興味があった。外壁は石造りで室内も同様であったが、王侯、貴族の部屋は木で内装が施されていたという。一部には畳のような絨緞も使われていたようだ。また城の中には礼拝場もあった。しかしお世辞にも「豪華」というようなものではなかった。

 第2次世界大戦時の高射砲などもそのまま残されていて、散策コースになっている外壁も歩いてみた。その日はあいにくの曇り空でフランスの影は見えなかったが、天気がよければ見えたのかもしれない。それから歩いてドーヴァーの町に下りていった。どこか見慣れた風景だと思っていたら、鹿児島市の多賀山公園から下りてくる風景とほとんど同じであることに気づいた。町の中心部にあるドーヴァー博物館やローマ遺跡を見学してからロンドンへの帰途についた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

マンチェスター(2)ローマ遺跡を訪ねる

  
castleDSCF1307  イギリスの観光ガイド集を見ると「マンチェスターは観光地ではないので見所はない」というようなことが書いてあった。「見所がない」なんてとんでもない、ただ見る人の感性がないだけのことではないかとわたしは思う。

 マンチェスター空港からタクシーで市内に向かう車窓から見た家並みがすばらしかった。運転手によれば特に観光地ということではなく普通の家だという。タクシーは迷うことなくホテルに着いた。地元では有名なホテルらしく蒸気機関を発明したジェームスワットゆかりのホテルだという。到着早々、産業革命の雰囲気に触れることができた。ジェームスワットについてよくよく考えてみると電力の単位ワットでもあり、わたしなど仕事がら1日に何十回も使っている言葉である。

 イギリスについて日本人に理解しにくいことがある。まず「イギリス人」についてだ。イギリスは今日まで何回も異民族の支配を受けている。昔からケルトという原住民族が住んでいたというが彼らもどこかから来たのに違いない。その後、ローマ人がAD40年頃、アングロ、サクソン人がAD450ごろ、ノルマン人がAD1066年に侵攻してきている。現在、ロンドン市内を歩いてみても実にいろいろな人種の人たちが歩き回っている。ということは私たち日本人が考える「日本人」というような意味での「イギリス人」はいないと考えるべきだろう。
 もうひとつはイギリスだけでなく欧米一般にいえることだが古代ローマ人、あるいは古代ローマ文明に対する淡いあこがれのような感情が存在する、ということだ。これは日本人が昔より中国文明に対してもっていた尊敬というか、あこがれの感情に似ている。今日、イギリスやアメリカの公共施設に古代ローマ様式の建築物が多いことを考えると理解できると思う。

 翌朝、わたしはキャッスルフィールドにローマンフォート(ローマの砦)というローマ時代の城壁を訪ねてみた。現在、城壁の一部と倉庫跡、外堀が残されており、他も順次発掘中とのこと。1700年昔マンチェスターの町がここから始まった、というような説明が書かれてある。私は城壁の上から当時のことを想像してみた。AD40年ころといえば日本ではまだ弥生時代である。あちこちに集落ができてちょっと力のある豪族が「くに」と称するような集落をまとめていた時代である。イギリスの先住民もおそらくそういう似たような状況だったのだろう。そこへローマ人が高度な文明とハイテク技術を携えて侵攻してきたのである。当時のローマ人はイタリアのポンペイ遺跡を見れば分かるように、現代の私たちから見ても驚くような高度な文明、ハイテク技術をもっていた。だから当時のケルト人たちは空からUFOでも襲来してきたような驚きだったのだろう。

 後先になったがイギリスには「○○チェスター」とつく地名が多いがチェスターは駐屯地を意味している。ロンドンに本隊がいてそのまわりに駐屯地を置いていたわけである。ローマ人は建築技術、土木技術にも長けていて、ロンドンから各駐屯地までの多くの道路を造っている。それらの多くは現在の幹線道路のもととなっているという。

 わたしは日本で史跡を訪ねて昔のことを想像するのが好きである。今回、イギリスのマンチェスターに来てやはり同じことをしている自分におかしさを感じながらホテルへの帰途についた。

| | コメント (0)

2005年11月 6日 (日)

平戸歴史散策

hiradojyo  福岡で技術研修があったのを機会に長崎県平戸島まで足を伸ばしてきた。毎日毎日仕事に追われていると遠出をするのも億劫になってしまいがちである。そこでわたしは自分に義務を科すようにしているのだ。仕事でどこかに行くときはそのうちの何回かは近くの土地に行くとか博物館などの見学に行くとかするようにしている。

  今回は平戸島を選んだ。博多から高速バスで佐世保まで2時間半、そこからさらに特急バスで1時間半という道のりである。なんとなんと4時間バスに揺られて平戸に到着したときにはもう九時を過ぎていた。しかもこのバス、特急バスといいながらあっちこっち寄っていくものだからかなりの時間を要した。

  早朝、ホテルの周りを散策すると幸橋とか吉田松陰が宿泊した場所とかあり、それから入り江に突き出した高台にある平戸城に登った。高台といっても数十メートルという高さだったろうか、ゆっくり歩いていったら15分ほどで到着した。周りの海、山、島と調和していてなるほど美しい城である。昼から入り江の対岸から眺めてみたが本当に美しい城だった。

 平戸の歴史は古く遣隋使の時代までさかのぼる。また平戸の歴史を語るとき代々この地を支配してきた松浦(まつら)党に触れないわけにはいかない。有力武将は戦国大名にしろ○○家とか、○○一族と呼ぶものだが松浦一族については党で呼ばれてきた。歴史的には○○党という呼び方はある種の軽蔑を込めた呼び方だそうだ。おそらく他の地域で見られたような権力の集中が起こらなかったためかもしれない。その歴史を調べていくとかなり古くから朝鮮半島や中国大陸との交易を行っていたようだ。

 そういう背景があって1550年ポルトガル船が平戸に入港しても特に驚くようなことではなかったのかもしれない。17世紀になり世界の力関係はスペイン、ポルトガルからイギリス、オランダに傾いていった。国内では秀吉が全国統一を行い、家康がその後継者になっていった。その後の鎖国政策にかかわらずオランダに対しては門戸が開かれ、後年、それが長崎、出島に移るまで平戸が日本で唯一の貿易港になっていった。

 私はそれまで日本の貿易の出先が大阪や江戸でなくなぜ平戸や長崎だったのか疑問を持っていた。地理的に中国大陸や東南アジアに近いとしても船便をもってすれば大阪やその近郊の方が有利ではないかと素朴な疑問を持っていた。この答えは私の独断だが第1はキリスト教文明の遮断、第2は海外との歴史的なつながりや航海術の存在があったのだろう。

 交易とか航海術というのは船と船乗りがいればいいというものではなく、たとえば船を造り、修理する技術者集団が必要だろう。操船の技術、測量術、食料、燃料の補給、また交易上の実務者も必要だったはずである。つまり交易を行うということは総合的で実務的な仕事だったので結局その能力を持つのは歴史的に平戸だったということなのだろう。

 私は観光資料館にも足を運んだ。案内の方が平戸藩と山鹿素行との関わりについて熱心に説明してくれた。山鹿流軍学の源流は武田信玄の甲州流にあるという。そこで私が武田信玄と徳川家康について自分の見解をはなしをしたところこの案内の人はたいへん興味を持っていろいろ質問してきた。気がついたらどちらが案内人か分からなくなっていた。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2005年9月20日 (火)

マンチェスター(1)イギリスの産業技術

manchester1 なぜマンチェスターかというとロンドン以外ではマンチェスターしか知らないというのが本当の理由であった。しかしそれでも産業革命の発祥の地を訪ねることは私にとってやはり大きな意義はあった。
 ロンドン、ヒースロー空港で飛行機を乗り換えてマンチェスター空港までは約1時間半くらいのフライトである。空から地上を眺めると地上の牧草地の模様が田んぼのあぜ道のように見えた。帰りには列車でロンドンに向かったが、これが牧草地の境のいけがきであることがわかった。

 マンチェスター空港からタクシーで市内に向かう。車窓から多くの歴史的な建物群が見えた。運転手にここは特別な観光地域なのかと聞くと特にそうでもないという。やがてホテルに着いた。これがまた古い建物でなんでもジェームス・ワットゆかりの建物を改造したものだという。さっそくホテル周辺を散策してみる。行っても行っても歴史的な建物が建ち並んでいる。最初はあまりに珍しいもので写真をパチパチ撮っていたがこれじゃすぐにメモリーがいっぱいになるとわかって写真を撮るのをひかえた。

 翌日、予定の行動で産業科学博物館に行った。ここは産業革命の時代、マンチェスターからリバプールまで列車が開通したとき駅舎だったところであり、駅舎はそのまま残されている。産業革命の発祥の地として蒸気機関やその他の機械や部品が並べられており中にはデモンストレーションとして実際に運転されているものもあった。

 わたしはその他の展示物も見ていったがとりわけ下水設備に大きな興味を持った。展示場の地下では産業革命当時、いかに衛生環境が悪かったか、そしてそのために疫病が流行し多くの人命が失われ、庶民の生活が悲惨なものだったかパネルで紹介してあった。さらに下水設備に使われた資材や機械、そして技術者や労働者がこれでもかこれでもかと紹介されていた。わたしはこの展示を見たときイギリスの産業技術の奥深さというものをまざまざと見せつけられた思いがした。これから類推して大英帝国のすごさというものはあらゆる分野においてこういう底辺の技術が存在し、またそういう底辺の技術が社会を支えていたのだということが理解できた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月11日 (日)

霞(かすみ)神社と白蛇様

kasumijinjya

   宮崎自動車道、高原(たかはる)インターから20分ほど山手に入ると霞神社がある。地元では大変有名な神社であるが、これまで行ったことがなかった。先日、たまたま仕事がはやめに終わったので参拝してきたのである。関係者の方々には申し訳ないのだが、全国至る所に「霊験あらたか」な神社の類があり、中にはいかがわしいものもある。実を言うとここもその類だろうと誤解していたのである。実際に行ってみると極めてまじめな神社であることがわかった。
 まず、掲示板を見ると白蛇の学術的な説明からしてある。学術名は「岩蛇」と言って体の色は白ではなく透明に近く、回りの色によって白に見えたりするとのことである。この山麓一帯は昔、修験道者の修行の場所だったそうである。神社の施設といい、また参道の土産物屋さんの多さといいかなりの参拝者が訪れていることが想像できた。
 わたしが現地に着いたのはもう太陽が西に沈みかけていたころである。本殿に参拝した後さっそく白蛇様のいるという岩場に行って、掃除のおじさんに我ながら馬鹿な質問をした。
「白蛇はどこにいますか」
温厚なおじさんはていねいに答えてくれた。「運が良ければ岩肌にいたり、時には木の枝に登っていることもあります。まあ、めったに見られませんが人によっては何回も見ていますよ」
 わたしはこれを聞いて私のような不信心の固まりのような人間が1回くらいで会えるはずはないと思った。それ以来、私は宮崎に行くときは必ずこの霞神社に行くようにしている。参拝というより「白蛇様」に会いに行っているのである。しかしながら現在に至るまで一度もお目にかかっていない。私の不信心ぶりも相当なものだと今さらながら自覚したのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 6日 (火)

ベトナム、ホーチミン市を訪ねる

vietnam2  ベトナムに行って戦争終結後の復興を見極めることくことはわたしにとって長い間の宿題のようなものだった。ベトナムで最大の都市、ホーチミン市は以前はサイゴン市と呼ばれていたが戦争終結後、建国の父であるホーチミン氏にちなんでホーチミン市と名前が変わった。ホーチミン空港に着いてまず驚いたのが出口前の柵に群がっているベトナムの人たちの人数の多さと異様な熱気だった。

 翌朝、ホテル周辺を散策した。わたしはどこに行っても早朝散歩を習慣としている。というのは朝は思わぬ景色や人たちとの出会いがあるからだ。ホーチミン市内にはすばらしい建築物がたくさんあり、それらを見学するのも楽しみの一つだった。ただ、ここではシクロのしつこい客引きに閉口した。シクロとは自転車の前に客席のある人力車のようなものである。ベトナム戦争が終了した象徴的なスポットである「統一会堂」や戦争証跡博物館、ホーチミン記念館などいくつかの史跡や博物館を訪問した。

 次の日、郊外のカオダイ教という寺院に行った。市内の様子とは少し変わって小さな町工場や店、市場などが延々とおそらく10Kmから20Kmくらい続いていて、言葉のあやではなく本当に至るところでビルや工場、一般住宅の建設が行われていた。ガイドさんに聞くとベトナム国内の資本もあるが外国からの投資が多いとのこと。実際、よく見るとベトナム国旗と並んで、たとえば韓国の国旗が掲げられたりしていたのでこれが韓国の工場だとわかった。

 話は戻ってベトナムに興味があったのは私たちの世代ではベトナム戦争との関連である。ある本にこういうことが書いてある。「日本人はとかくベトナム戦争を美化したがる。しかしベトナム人にとってはこれは大きな災害のようなものであり、このことを理解すべきであり、軽々しく話題にすべきでない」これを十分わかった上でガイドの女性に失礼のないように質問してみた。すると意外な答えが返ってきた。

 彼女の父親は戦争当時、米軍施設で働いていたので、戦後は収容所に2年ほど入れられた。その後も仕事に就くことができず家族は生活に困窮したとのことである。ベトナム戦争は歴史的には民族の解放、独立戦争であったが、私をふくむ日本人はベトナム人みんなが解放闘争に加わったような錯覚に陥る。現実にはあるものは解放戦線側につき、またあるものは南ベトナム政府軍側につき、またあるものはアメリカ軍に協力した。多くはそれぞれの事情があり、それぞれの生き方があったのである。これは今回の旅行で得た重要なことの一つです。

 しかし、彼女を含めベトナムで出会った人たちの多くが前向きな考え方、生き方をしていたのが印象的だった。またわたしは別のところで現地の商店主にシクロのしつこい客びきに閉口したことを話したとき、最初はわたしに同情していた女主人は最後にこう言った。
「あの人たちにも生活がかかっているのです。どうか理解してあげてください」このひとことも印象に残った一コマである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 1日 (木)

種子島の思い出

rocket  1999年2月 仕事で種子島に行ってきた。仕事がら、離島にはよく行くが、種子島は初めての出張だった。現場の調査が早く終わって南の方へ見学に行くことにした。

 東海岸には砂浜と岩場が広がっていて、その一角に「千座(ちくら)の岩屋」という洞窟がある。この洞窟は海の中にあって満潮時には海中に沈み、干潮時にはひとが入ることができる洞窟である。千人もの人が座れるところからこの名がついたそうだ。洞窟の中から押し寄せる波を見ていると何ともいえない幻想的な感動を覚えた。

 そのあとロケット基地に足を運ぶ。打ち上げのないロケット基地は極めて平穏なもので、基地の敷地内は出入り自由になっている。その一角にもちろんシュミレーションであるが、ロケットの打ち上げを体験させてくれるコーナーがあり、制御室は以前、実際に使用されていたものらしい。わたしたち技術者は子どものような心をもっている。良く言えばロマンチストだが、はっきりいえば単純な人間なのである。大の大人が二人、ロケット打ち上げの管制業務を行い、打ち上げは無事成功した。
「エンジン系統に異常はないか」
「すべて順調に飛行を続けています。」
このようなやりとりを真剣に行う。
 
やがてわたしはマスコミ各社からコメントを求められる錯覚に陥る。
「今の感想はいかがですか」
「スタッフ一同がそれぞれ良い仕事をしてくれて感謝しています」
わたしは現在もこの人工衛星は地球を回っているような幻想を覚える。

  島内をあちこちと散見しているうちに車が路肩の縁石に乗り上げて立ち往生してしまい幻想からさめた。するとどこからともなく人が集まりあっという間に助けてくれた。お礼を言うまもなくまたどこへともなくいなくなった。

後日、この話しを種子島出身の友人に話すと「種子島というところはそんなところなのさ」と気のない返事ながらうれしそうであった。

chikura 千座(ちくら)の岩屋から海を見る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月23日 (火)

中国、万里の長城旅行記

banrinotyoujyou

  ある本を読んでいたら「万里の長城に行かなかったらいい男とは言えない」という下りが目についた。なぬ!中国の文献に関しては論語から史記さらに毛沢東選集まで読んでいる中国通を自認する私としてはプライドが傷ついた。
 すぐに旅行会社に電話して航空券とホテルを手配し、パスポートと着物を数枚バッグに押し込んで「では行ってくるべぇ」こうして私の中国、北京旅行は始まった。

 午前10時に家を福岡、上海と飛行機を乗り継いで北京空港に午後8時に降り立った。ずいぶん時間のかかることだと思いつつも、中国4千年の歴史からすれば一瞬のことだとも思った。中国を紹介するテレビではよく自転車の群が広い道路を走っている光景が映し出される。翌朝ホテルの窓から道路をながめると、自転車もいるにはいるがそれより車で混雑している。日本の通勤時間帯と変わらない様子である。

 予定の時間にチャーターしていた車と中国人のガイドが現れる。万里の長城と一言で言うがそれは2500年前、秦の始皇帝が作り始め全長は数千Kmにおよぶ壮大な建造物なのである。私たちが目指したのは八達嶺(はったつれい)というところである。以前は北京市から3時間くらいかかっていたらしいが、現在では高速道路が整備されていて1時間弱くらいで到着する。

 車をチャーターするほどのことはないのであるが、わたしは途中の風景を楽しみたかったのである。わたしは助手席に陣取り若いガイドの王さんに質問を浴びせる。あの建物は何か?あのアパートメントはだれの所有か?どういう人たちが住んでいるのか?家賃はどれくらいか?それは平均月収の何%に相当するのか?もちろん日本の現状も話しながらいろいろ話しをしていった。最初とまどっていた王さんも次第に興味を示してきて1時間くらいのドライブがあっという間に八達嶺長城に到着した。

 概略的に言うと北京市は2008年のオリンピックに向けて建設ラッシュである。市の中心部には高層ビルが建ち並んでいる。繁華街は東京のようなデパートや店がずっと続いている。紫禁城の北にある景山公園という高さ数十mの丘の上から北京市をながめると郊外にビルが林立しているのが見える。当初思ったよりずっと大都市であることがわかった。

 八達嶺長城だがガイド誌によれば頂上までのロープーウェイがあるとのことだった。わたしはガイドさんに「ロープーウェイで登りましょう」と言うと、彼女はさも軽蔑したような目つきで曰く。「これくらい自分の足で登らなくてどうします。」ここまで言われたら歩いて登るしかない。最初は緩やかだった坂もだんだんときつくなる。息は切れる。冷たい北風はびゅーびゅー吹いてくる。私はついにへたり込んでしまった。

 中国に対する思い入れは人一倍強いのだが、如何せん体力がついてこない。心配したガイドの王さんが「大丈夫ですか?でも万里の長城見学が大変だということがわかったでしょう」と勝ち誇ったように聞いてきた。それでも私は強がりを言わねばならなかった。「長城を登るくらいは大したことはないが、これを作った人たちは大変だったでしょうね」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月21日 (日)

薩摩藩の集成館事業

syokosyuseikan  先日、東北から知人が訪ねてきた。「幕末から明治にかけて先人たちの足跡を見てみたい」との要望なので加治屋町や西郷南洲顕彰館とともに尚古集成館を案内することにした。

  ところで明治維新は政治革命としてはよく知られているところであるが科学技術の面から見るとまた興味深いものがある。薩摩藩は科学技術の面でも最先端を行っていた歴史的な事実がある。鹿児島市の磯公園(仙岩園)に隣接して尚古集成館という博物館がある。ここで幕末期に集成館事業というものが行われた。第28代薩摩藩主、島津斉彬は西欧諸国の武力に対抗するためには国内の産業を育成する必要があると考え、およそ当時考えられるだけの事業を行った。それは船の建造、製鉄、紡績、ガラス工芸、電気通信など当時考えられるだけの事業を行った。いや事業と言うより壮大な実験基地といってもよかった。それらが現在の磯庭園周辺にあったのである。

 当時、世界情勢と日本が今後進むべき方向について理解している人間は日本全国でも数えるほどしかいなかったはずであるが薩摩藩の場合はそれが藩主であったということであった。斉彬はこれを単に一藩の事業ではなく全国規模のモデル事業と考えていたようである。というのは秘密裏に行ったのではなく幕府をはじめ全国各藩からの視察団を受け入れているからである。

 この集成館事業は薩英戦争で破壊されたことと藩財政を圧迫したこと、さらに斉彬の死によって終わりを告げた。しかしその精神は全国各地に影響を与え明治維新以降の殖産興業に寄与したのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ファラデー博物館

farady1

 ロンドンの中心地、地下鉄ピカデリー駅とグリーンパーク駅の中間くらいの場所に王立協会という建物がある。ここの地下にマイケル ファラデー博物館があり、 観光地ではないので訪れる人はまれである。

 マイケル ファラデーは電気と化学の分野で多くの重要な発見を行った。電気の分野では電磁誘導現象を発見した。電磁誘導とは電気と磁気の相互作用のことだが、簡単にいえば発電機、変圧器、電動機の基本原理、すなわち現代社会を支える電力技術の基本原理を発見したのである。

 ファラデーは1791年貧しい鍛冶屋に生まれ、製本職人に弟子入りした。デービーという人の講演を聴き科学に傾倒し、やがてデービーの助手として王立協会に住みながら実験の手伝いをしていった。その後多くの重要な発見をしたが高等教育を受けていないため、ほとんど実験によるものであった。なお当時は自然哲学という概念はあっても自然科学という概念はなかった。

 私が訪問する前に得ていた情報では記念館は工事中のため当分の間、閉館ということであったが、行ってみるとあっさりと中に入れてくれた。入館料は1ポンド、約200円である。

 私が地下におりてゆくとファラデーの仕事場がそのまま保存されており、隣の部屋には彼が実験に使った道具が展示されていた。興味のない人にはただのがらくたにしか見えないが私にはどれもこれも感動ものだった。電磁誘導を発見したというコイルはガラスケースに収められ直径20Cmほどで思ったより小さかった。

 今の私たちは電気がどういう法則に従い、振る舞いをするかわかっているが、当時としてはすべて手探りの状態だったのである。そういう状態で実験を繰り返したのであるから当然のことながら多くの失敗もしたことだろうと想像した。

 地下室におりたまま出てこない私を心配して係りの女性が様子を見に来た。わたしはファラデーがいかに偉大であるか、わたしがいかに感動していることを話したが係りの女性は興味はなさそうだった。どこの国でも身内のものを遠い国からきてほめあげたところで実感はわかないのだろう。

 ともあれ私はファラデー記念館の訪問が実現できたことでイギリス訪問の成果は十分に得られたと満足しながらホテルに帰ったのである。farady3 

(写真:電磁誘導の実験に使ったコイル)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月20日 (土)

海外旅行で重宝するもの

ryokouhitujyuhin  海外旅行はなるべく軽装備で行くのが鉄則である。足りないものが現地調達した方がよい。但し、これは原則論だ。私の経験からやはり持って行った方がよいものもある。

つめ切り:

1週間以上の旅行になるとつめが伸る。もってゆくのがよい。ただし、現在では航空機への持ち込みは禁止されているのでカウンタで預ける方に入れることになる。もちろん現地調達は可能だがつめ切り一つのために探し回るというのも時間のムダというものだ。

靴下:

必要数+予備を1足 歩き回ると結構すり減るものだ。体力はあるが靴下がもたなかったということのないように。

旅行用おにぎり(アルファー米):

何が心配かといってご飯が食べられないというのが日本人、特に男性の最大の問題点だ。なぜかしら女性はなんでも食べて生きていけるみたいである。この旅行用のおにぎり、一昔前まではまずくてもこんなものかと思っていたが、最近のものはコンビニで買うおにぎりと変わらないくらいのおいしさである。開発されたメーカーさん(手元のものには尾西食品株式会社と書いてあります)に感謝、感謝。

携帯用ポット:

旅行用のおにぎりとなると湯沸かし器が必要だ。ホテルに備え付けてあるところもあればフロントにお願いしないといけないところもある。荷物になるがもってゆくとすごく快適。旅行用に小型軽量で電圧自動切り替え付きが便利。ひとり用だと350mLで十分。200Vの国だとお湯など数分で沸く。

他にもいろいろあるだろうがスーツケースのスペースと行動の自由とのバランスということになる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

アメリカ鉄道アムトラックに乗る

AMTRUCK1   アメリカといえば車と飛行機のイメージがあるが鉄道もがんばっている。国土が広いため電化されているのはボストンワシントンなどごく一部だと聞いた。ボストンからニューヨークまでアメリカ版新幹線アムトラック、アセラに乗ってみた。それもファーストクラスである。せっかくの機会だから静かに車窓の景色を楽しみたいと思ったからだ。

 日本との大きな違いは、まず改札口がないことだ。日本だとどの列車は何時何分発でプラットホームは何番と決まっているがアメリカではどのプラットホームに入ってくるか直前までわからない。だから乗客は電光掲示板に表示されるまでじっと待っている。(写真上)アナウンスもあるにはあるがそう頻繁ではないので初めてに人は不安になる。わたしなどアメリカ人からどの列車に乗ればいいのか聞かれたことがある。

 どうにかこうにか予定通りアセラのファーストクラスに乗れた。しかし指定席といいながらどこに座っても良いようになっている。静かな雰囲気を味わおう思ったのに前後、左右で携帯で話をしたり、ノートパソコンで仕事をしたりはじめた。たまらなくなり座席を移ったところ乗り込む乗客はみんなそんな感じだった。つまりアメリカではビジネスエリートがファーストクラスを利用して移動時間に仕事をするのである。座席の足元にはラップトップコンピュータ用のコンセントが準備されている。

 東海岸にはボストン、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンDCと大都市が点在しているのでビジネスマンにとってアムトラックでの移動は便利なのかもしれない。わたしはアメリカ滞在中ファーストクラス以外に通常の指定席、それから自由席と乗ってみたが皮肉なことに一番静かだったのは自由席だった。

 車窓の景色はというと時に都市や住宅地を通過したが多くは荒涼とした原野が広がっているだけだった。

AMTRUCK2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月19日 (金)

ボストン美術館訪問

bostonmuseum ホテルからボストン美術館まで少し離れているが歩けない距離ではない。市内散策もかねて歩いてみる。ボストンは大学の町である。有名なハーバード大学やマサチューセッツ大学ほか大小60くらいの大学があるという。

ピルグリムスたちにとって新大陸での生活は平穏なものではなかった。上陸して1年経たない間に半数が病気や飢えで死んだ。それを乗り越えたあとも食うや食わずの生活の中でやったことのひとつが学校を作ったことである。それほど教育を重視していたのである。やがて他の移住者たちが入ってきてあちこちにコロニーができたときボストンは教師の供給地になっていった。

 私はノースイースタン大学や小沢征爾率いるボストン交響楽団のシンフォニーホールを見ながら歩いていくとやがてボストン美術館に到着した。

 ボストン美術館はアメリカでも有数の美術館である。残念ながら私には美術についてのコメントするほどの知識はない。はじめに日本コーナーを見に行く。ボストン美術館は日本の美術品のコレクションでも知られていて浮世絵などとともに日本刀の展示があった。

 わたしは日本で見るのとなんか違う感じがした。よく見ると飾りが派手なのである。日本人は質実剛健というか、しぶい美しさを好むものだが、展示品の多くは派手なのである。わたしは少し考えてみた。ひとつは外国人がこういうものを好んで収集したということなのだろう。もうひとつは日本の美術商たちは外国人がこういう好みのものを収集すると知って飾りの派手なものを持ち込んだのではないか、と考えた。もちろん私の想像だが。

 さらに奥に進むと仏教寺院の内部が再現されている。中尊寺の金色堂を思い出したが日本人である私でさえとても厳粛な気分になった。だから外国人がここにくるとものすごい衝撃を受けるのではないかと想像した。

 わたしは中国、アジアコーナーからギリシア、エジプトコーナーをみてその日は帰った。ボストン美術館はチケットを買うと一ヶ月以内にもう一回入ることができるシステムになっている。わたしはボストンを離れる日、再び電車の時間までじっくりと鑑賞したのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月18日 (木)

プレッツェンゼー記念館-ドイツ暗黒の歴史-

syuumatunoie
ベルリンに来て観光地だけ回るだけでは芸がない。ホロコーストの現地を訪ねてみたい気持ちになった。有名なアウシュビッツもあるがちょっと遠すぎる。現地の人に聞くとプレッツェンゼー記念館というところすすめてくれた。

タクシーで10分ほどだった。9:00開館ということで時間があったので隣の刑務所の壁沿いを散策していると右側に日曜菜園風の畑が広がっていた。しかもバンガローというか小屋も建っていて中にはウサギなどを飼っているところもある。これをドイツの人たちは「週末の家」と呼んでいる。これがドイツ人の一般的な趣味だそうだ。

日本人もガーデニングが好きだが、北に位置するドイツの人たちにとってガーデニングのできる期間は年間を通して限られている。それゆえガーデニングに対する執着が強いのだろう。やがてプレッツェンゼー記念館が開館した。といっても早朝の入場者は私たちとドイツの中年の3人連れがだけだった。

ナチスに対する抵抗運動の活動家がとらわれ、ここで2000人以上が処刑されたという。こういう忌まわしい歴史もドイツ人はしっかり見つめている。中にはネオナチのグループのようにこの事実さえ認めない人たちもいるという。翻って私たち日本人は自分たちの歴史にしっかり向き合っているだろうか。そう思いながら見学を続けた。

写真上部:週末の家 下部左:庭先で出会ったドイツ人グループ 下部右:処刑場

  puretuze2
puretunze1

| | コメント (0) | トラックバック (1)

唐津紀行-唐津焼と歴史探訪-

kartatujo

 唐津市というところは独特の雰囲気のある街です。それは建築物を見ればわかるのですが、大きさもやや大きめで中国風というか、韓国風というか、そういう趣があります。地理的な関係で中国や朝鮮との交易が昔から盛んだったのではないかと思われます。

 以前ある施設に宿泊したとき、その旅館は炭鉱を経営していた人の屋敷だったと聞いたこともありました。 佐賀県は仕事の関係でこれまでも何回か訪れて唐津市にも短時間ではありますが、滞在したことも数回あります。その度に、一度ゆっくり来てみたいものだと思っていました。そして今回、やっと時間がとれたので唐津市をゆっくりと散策してきました。

 唐津市へは博多からバスと電車がある。電車は地下鉄で唐津行きに乗ると、あるところから地上に出てきてJR筑肥線になる。博多駅から約1時間20分くらいである。
 唐津駅に着くと唐津焼の基礎知識をつけるために駅前の「アルピノ」という展示館に行ってみる。残念ながら私には焼き物を評価するほどの目はない。しかしながら「素朴さの中にも上品さがある」とでもいうのだろうか、そういう気品さが感じられる。

 その後、唐津の町並みを散策したり、たまたま、たどり着いた窯元に飛び込んでみたりした。そこは「中里太郎右衛門窯」といい、聞くところによると唐津焼を代表するような窯元とのことである。また、その屋敷が立派な作りである。ある商家の迎賓館として使われていたそうである。

 私は2、3の窯元を訪ねた後、「末廬館」という博物館にも行ってみる。「末廬国」という名前は魏志倭人伝に出てくる地名である。ここでは古代人の生活ぶりを模型で再現してあり、また、様々な発掘品が展示されている。

 さて、唐津焼にもどるがその品物は気に入ったのだが、値段が少々高いのである。気軽に買えるような品物ではない。どうしたものかと考えながら街を散策していたらある神社の境内で地元の同好会の人たちが、チャリティー市を開いていた。品物と値段を見たら私でも買えるくらいの値段だので、私は荷物にならない程度の小物を2、3個買って帰り支度に入った。

 短い休暇だったが、わたしは唐津焼と古代へのロマンで十分に満喫できた。唐津はたびたび訪れても飽きのこない町である 。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月17日 (水)

ボストンを歩く

boston  ボストンを含むアメリカの東北部をニューイングランドはいわばアメリカ発祥の地である。ボストンの南にプリマスというところがある。そこはメイフラワー号のピルグリムズ、ファーザースが上陸したところである。

 飛行機は成田空港からワシントンDCまで12時間、一旦ここで入国審査を受ける。
wellcome to united statesと看板はあるが入国審査官はとても歓迎しているような態度ではなかった。現在のアメリカは戦時国家でありテロの脅威にさらされている国であることは理解できるとしても気持ちのいいものではない。

 ワシントン空港でボストン行きに乗り換える。約1時間30分でボストン空港に着陸した。タクシーにてホテルに向かう。まず印象的だったのはホテルの窓から見た景色だっ。チャールズリバー沿いのあたりをバックベイと呼んでいるが、レンガ色の建物が並んでいた。以前訪れたドイツのハイデルベルグを思い出した。ボストンを含むアメリカの東北部をニューイングランドと称するがイングランドの風景はこんな感じなんだろうと想像した。この日はホテル周辺を散策して1日を終えた。

 翌日は独立戦争当時の史跡をめぐるフリーダムトレイル、自由への軌跡という散策コースを歩いてみる。なお日本でいう「アメリカ独立戦争」はアメリカでは「アメリカ革命」と呼んでいる。アメリカ人には自分たちの手で自由を勝ち取ったという意味で革命の方が気に入っているのかもしれない。

 アメリカ革命で子供たちに圧倒的に人気がある人物がポール、リビアという人である。日本人の私にははじめて聞く名前であるが書店の子供コーナーには何冊もその伝記や物語の本が並べられている。イギリス軍の接近を夜間、馬を走らせて市民やゲリラ隊に知らせたことで勝利に貢献したということである。歴史的にはこういう愛国者が大勢いたことだろうが通常は公式の歴史に名を残すことはない。

 日本でいえば坂本龍馬のような存在なのだろう。公式の歴史に名を残すことはないが国民に圧倒的な人気があり、すべての勝利はこの人がもたらしたというように伝説が作られたように。

 フリーダムトレイルはボストンコモンという公園から始まる。私はマサチューセッツ州議会、オールドコーナー書店と立ち寄りオールドシティーホールの庭にたどり着いた。そこにはベンジャミンフランクリンの像があった。フランクリンは多才の人である。もともとが印刷工であり、印刷事業でもそこそこ成功している。電気関係では様々な実験をし、多くの発見をしている。避雷針などは現在も使われており、原理的にはフランクリンの当時と変わっていない。やがて政治家になり道路を建設し、消防隊を組織化し、はじめての公共図書館を設立した。

 独立戦争前夜にはイギリス本国との交渉に当たり、結局決裂して戦争になるが独立宣言の草案にも寄与した。今でも米国人にもっとも人気のあるひとりである。

 さらにトレイルを進むと旧州会議事堂にいたる。1776年独立宣言が読まれたという。現在は展示場になっている。その建物の前の道路にボストン虐殺跡がある。ボストン市民には申し訳ないが「ボストン虐殺事件」はイギリス軍と市民がにらみ合っている中起こった偶発的な事件であった。独立派はこの事件をセンセーショナルに伝えることで独立運動を決定的にしたのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月16日 (火)

韓国旅行記、歴史探訪の旅(3)

bokado

 14代沙也可氏に会う
 文禄、慶長の役に従軍した日本軍の武将に沙也可(さやか)という人物がいた。彼は大義名分のないこの戦争で朝鮮軍と戦うことを潔しとせず、逆に将兵3000人とともに朝鮮軍に加わり日本軍と戦ったということである。日本側には資料はない。韓国側に「慕夏堂記」という文書がある。

 その沙也可の子孫たちが、今でも住んでいるところがあり、その代表が「14代沙也可」を名乗っているのである。私たち一行は彼に会いに行ったのである。

 プサン市の北にテグ市があり、そのテグ市の郊外の村に友鹿里(ウロクリ)がある。私たちのバスは狭い道を通ってウロクリにつく。14代沙也可である金在徳氏は背広姿で迎えてくれた。

 まず講堂で金在徳氏の講演を聴く。氏は日本語を流暢に話す。内容は沙也可がいかに優れた武将であり、文禄、慶長の役(韓国では壬辰、倭乱といいます)でいかに朝鮮側の勝利に寄与したか、を力説された。

 最後に少しおもしろいことをいわれた。鹿児島県の美山に薩摩焼十四代宗家 沈 壽官という人がいて、この先祖は文禄、慶長の役で島津軍が引き上げるときにつれてきた陶工で薩摩焼を完成させた人である。この人たちの故郷はいまでも韓国にあるが、自分たちには日本に故郷がない、と。

 これは沙也可のルーツにかかわる問題で詳細はここでは書けないが、興味のあられる方は司馬遼太郎 著「街道を行くシリーズ2 韓のくに紀行」朝日新聞社発行、朝日文芸文庫に詳しい。

 その夜は韓国の古都、慶州(キョンジュ)市、普門湖畔のホテルに泊まる。翌朝早く起きて湖畔を散策していると、散歩中の韓国女性に出会った。彼女は親切に道案内をしてくれた。「韓国の女性は何と親切なんだろう」と感心していたら、突然、湖畔の売店に出た。「ここが私のお店です。おみやげなどいかがですか?..」彼女は土産物店の女性オーナーだったのである。しかし、いやらしさはなく、自然に話しながら散歩していたらたまたま彼女のお店に着いた、という感じである。そこで私はさきほどの認識を変えた「韓国の女性は商売熱心なのだ」と。

       韓国旅行記、歴史探訪の旅 おわり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

韓国旅行記、歴史探訪の旅(2)

hanzando

 閑山島訪問
 韓国の旅、3日目は朝から雨になった。午前中の予定は閑山島(ハンザンドウ)訪問である。閑山島は韓国の国民的英雄、李舜臣将軍が率いた朝鮮水軍の基地があった所である。そこへは観光船で渡り、船着き場から500mほど歩くと神社のような廟がある。雨の日の観光も風情があってなかなかいいものである。

 歴史に戻るが当時の日本水軍は有名な九鬼水軍など、戦国時代を通じて実戦経験の豊富だったように思われるが、地理不案内の外国に来てまで通用したかどうか、と考えると、わたしにはほとんど冒険にしか思えなかった。無謀な戦いに、当時の将兵の嘆きが聞こえるように思えた。

 李舜臣将軍のことであるが、軍事に優れていただけでなく、人格高潔の人であったらしい。その他興味があったのは閑山島をはじめ、この種の廟は国または財団法人で管理しているとのことであった。日本ではいかに敬愛されている人であっても、宗教的なことは私的なことと見なされるが、韓国では国家またはその外郭団体で運営されていた。これは国情の違いである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«韓国旅行記、歴史探訪の旅(1)