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2005年8月 9日 (火)

シーボルトを訪ねて長崎旅行

siebold
 昨年、長崎を旅行したとき偶然シーボルトの居宅跡を訪ねた。そこは当時鎖国であったため外国人は出島の外にはでられなかったのだが、医者であったシーボルトは特例で山手の鳴滝というところで治療と教育をすることを許された場所である。

 シーボルトは今でも長崎市民から慕われていて電車や大学の名前になっている。いったいどういう人なのだろうか。かれは1796年ドイツのバイエルン王国に生まれた。大学で医学を学んだ後27歳の時、オランダ商館の医者として長崎の出島に来ている。彼は単なる医者ではなく日本の植物、動物から風俗習慣まで幅広く研究している。また研究だけでなく多くの日本人を教育している。司馬遼太郎氏は彼をして日本人に「科学」というものを教えた人だという。

 私は彼の生き方に大きな興味を持った。名誉心や宗教的な動機があるにせよここまで献身的になれるのはなぜだろうと素直に思ったのである。今ではヨーロッパまで飛行機で十数時間で行けるが、当時は船で数ヶ月を要していたはずである。まさに命がけだったろうにそれを押してくる情熱はどこからくるのだろうと思ったのである。

 もうひとつ発見したことがある。私は以前この紙面で明治維新直後の岩倉使節団に随行した日本の若者の合理的な考え方はどこから来たのだろうと思い、結論として「日本人は元々合理的な民族なのではないか」と考えたことを紹介した。それもあるのだろうが、幕末のころ日本の多くの若者があるいは藩の命令で、あるいは個人の意志で長崎に来て外国の教師について学び実地の研修を受けていたということである。政治とはあまり関係のないところで底辺では大きく変化していたのである。

 翻って現代の社会をを見てみると交通手段に恵まれ、経済的にも情報にも恵まれながら私たちはどれほどのものを学んでいるだろうか。幕末の頃と何が違うのか..
 それは執念というか真剣さが足りないのではないか。つまり当時の日本人はわからないことがあったら自分で考え抜いて考え抜いて、そのあげく先生のところに山を越え、野を越えて教えを請いに行った。つまり教えてもらう前に十分考えているから理解の一歩手前まで来ていたのではないか。だから外国人がびっくりするくらい日本人は理解力があったというのはそういうことだろう。
そういうことを考えながら長崎の石段を下りていったのである。

                                   へなちょこじぃ

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