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2005年8月 9日 (火)

歴史の宝庫、壱岐、対馬の旅(1)

watatumijinnjya  わたしが対馬に行こうと思い立ったのは特別、理由があったわけではない。ただ、一昨年韓国を旅行したとき、船上からみた対馬に何かしらひかれる思いがして、機会があったらいってみようと思ったのである。

 私のイメージでは日本とか朝鮮とか国々が成立する以前の古代の人々は互いに行き来し、その中間点の対馬や壱岐等の島々は中継地としてにぎわったに違いない。やがて朝鮮半島にいくつかの国家が興亡を繰り返していた時、その抗争に敗れたり、将来に見切りを付けたり、さまざまな理由で一族ごと、場合によっては国ごと日本に移住してきたのだろう。かれらは日本の各地で有力な部族となり、その一部が支配的な力を持っていったのではなかろうか。当然、彼らは日本に高度な文化や技術を伝えたのであろう。とすれば日本のルーツといえるものが対馬や壱岐の島々には残されているはずである。こう推測するのだが、果たしてそこには古代の遺跡や史跡、神社、寺院の類がたくさん残されている。つまり「歴史の宝庫」なのである。

 福岡空港から約30分で対馬空港に着く。他に博多港からは壱岐まで1時間、対馬までは2時間の高速船、さらに速度は遅くなるがフェリーも就航している。対馬の中心地は厳原(いずはら)という町である。室町時代から江戸時代まで宗氏という大名が対馬を支配していた。その居城が厳原にあったのである。町のあちこちに塀だけであるが武家屋敷跡が現在でも数多く残っている。

 日本人が初めて歴史に出てくる「魏志倭人伝」という本にこういう記述がある。

「朝鮮半島から海を渡ると対馬國に至る。そこは全くの孤島で周囲200kmほどの広さしかなく、土地はけわしく山は深く、道路は動物が通る小径のようである。家は千戸ほどあるが、良質の田ぼはなく、海産物を食べて生活し、船を使って朝鮮に行ったり日本に行ったりしている。」

 今でこそ道路はよく整備されているが基本的にこの記述は正しい。古代人の観察と記録に頭が下がるような気がする。ただ古代の貧しさは今では見られない。家の大きさは私たちが通常目にする大きさの1.5倍から2倍くらいはある。また厳原は小さい町ながら料理屋や飲食店が多くある。つまり、漁業と海運で潤ってきたのである。

 歴史は古代ばかりではない。以前NHK大河ドラマでやっていた「北条時宗」の時代に蒙古軍が攻めてきた。1274年と1281年の元寇である。このとき壱岐、対馬の武士たちはよく戦ったが、奮戦の末、全滅した。その後、日本と朝鮮は友好関係に入り、朝鮮通信使という使節がたびたび日本を訪れている。実は宗家の重要な仕事は日朝交渉の日本代表だったのである。秀吉の晩年に日本は朝鮮に大義名分のない侵略を行った。(文禄、慶長の役)徳川時代に入り関係は修復され朝鮮通信使も何回も訪れている。

 2日目、私は島の中央部にある和多都美(わたづみ)神社に参拝した。広島の厳島神社と同じように海の中に鳥居が立っている。近くの物産店の主人がお茶を出してくれながら海幸、山幸の伝説について熱心に説明してくれた。「ご商売のじゃまになりませんか」と私が聞いたとき、ご主人は「昨日も売れなかった。今日も売れなかった。この分でいくと明日も売れませんなあ」と笑って答えてくれた。

                             次回に続く

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